32 「諦めない」意思
たくさんの炎の蝶はソフィーの目の前で一つになり、燃え盛る大きな蝶になった。大きな炎の蝶はその翅をはためかせて、竜の炎を押し返した。
その力強さは、確かにセティの意思だった。セティの意思が、ソフィーを守っていた。
「今更、なんのつもり?」
シジエムが眉をひそめる。もう終わりだと思っていたのに、思う通りにならなかったという、それは苛立ちだ。
呆然と炎の蝶を見上げていたソフィーは、その力強く燃え盛る炎にセティの意思を見出して、地面を踏みしめた。
意思の宿る鳶色の瞳で、まっすぐにシジエムを見つめる。
「わたしは諦めない! セティもきっと同じ! あなたには負けない!」
ソフィーは左手でセティを握りしめたまま、右手を持ち上げた。その手に光が集まり、それは光を受けて輝く槍になる。セティが扱っていたのより小振りな槍は、ソフィーが片手で扱える長さだった。
その穂先をシジエムに向けると、ソフィーはわずかに腰を沈めてから──跳んだ。
まっすぐに、シジエムに向かって輝く槍を突きつける。ふわりと、シジエムが一歩脇に避ける。
ソフィーはすぐに槍を引いて、また突き出す。シジエムは軽やかに、それを避ける。
「あなたの体だってもう、限界じゃない。それでわたしを深く傷つけるのは無理よ」
シジエムがふふと笑う。ソフィーが突き出した穂先が、その脇腹をかする。黒いワンピースに穴が開く。けれどそれは、わざとだった。
ソフィーの目の前で、ワンピースの穴をふさいでみせる。
「あなたの攻撃なんか、もうなんの意味もないわ」
それでもソフィーは諦めなかった。槍を突き出して、薙いで、シジエムを竜の体に追い詰めてゆく。
「わたしを追い詰めていると思っているんでしょう? そんなわけないじゃない。あなたの攻撃に当たってあげるのも、追い詰められてあげるのも、わざとよ。
何をやっても無駄って、あなたにわかってもらうためにね」
ふふ、ふふ、とシジエムは笑う。
ソフィーは唇を噛んで、ただ槍を振るう。その小さな一撃が、積み重なっていつか大きな傷になることを信じて。相手の油断が、どこかで自分の希望に繋がることを信じて。
そんなソフィーを励ますように、手の中のセティは温かく、柔らかく、光っていた。
「無駄よ、全部無駄」
シジエムはたっぷりのパニエを膨らませて、くるりと回る。時折わざと穂先に当たって、小さな傷を負っては、その傷をすぐに再生する。
傷からは時折、インクのような黒い液体が飛び散ったが、シジエムはそれを気にしなかった。すぐに再生できるのだから。
「いつまでそうやっているつもりなの?」
シジエムの笑い声が一層高くなる。ふふ、あはは、と笑い始める。まるで狂ったオルゴールのように、シジエムはくるくると回って、自分の傷を再生し続けた。
「あなたを倒すまで、諦めない!」
ソフィーは大きく腕を引いて、そこから力強く腕を突き出した。穂先がまっすぐに狙う先は、シジエムの顔だった。
シジエムはなんてことないように、首を傾けた。耳が裂け、黒い液体が飛び散る。金の髪もはらはらと宙を舞った。
「残念ね」
微笑んでいたシジエムの顔が、不意に驚きに固まった。
「……!?」
シジエムの視線が、下がってゆく。そして、自分の脇腹に深く、深く刺さっている一角獣の槍を見て、目を見開いた。
そこには、身を深くかがめて一角獣の槍を構えている、セティがいた。セティがいつの間にか、開いていたのだ。
「残念なのは、お前だ!」
セティの激しい意思とともに、シジエムの脇腹に刺さった槍が、さらに押し込まれる。シジエムの体にヒビが入って、黒い液体があちこちから溢れ出す。
そのそばから、一角獣の槍もセティも、輪郭が曖昧になっていた。ぼうっと光って、どんどん光に変わってゆく。
「これで終わり。本当は、本を壊したくはないけど」
ソフィーは、碧水の蛙の水と氷華の兎の氷で作った槍を、シジエムの胸に突き刺した。
「か、は……」
シジエムが黒い液体を吐き出す。胸からも、脇腹からも、大量の液体が流れ出していて、もう再生は不可能だった。
「ごめんなさい」
その姿に、ソフィーはつらそうに目を伏せた。
セティの姿も完全に光になって、そしてまた四角い本の姿に戻ってしまった。途端に、ソフィーが持っていた槍も形を失って、水の塊に変わる。
場違いに、ふふ、ふふふ、とシジエムが笑いだした。
「何……?」
ぎょっと、ソフィーは目を見開いてシジエムを見る。
「残念ね……わたしを倒したと思っているんでしょうけど……」
口から黒い液体を吐き出しながら、シジエムは笑っていた。胸と脇腹に大きな穴を開けた状態で、楽しそうに言葉を紡ぐ。
「わたしは写しだから、壊れてもどうってことないの」
ふふふ、とシジエムは笑う。その体がぼうっと光って、輪郭が曖昧になる。そして光が小さく集まってゆく。後に残ったのは、ひび割れて壊れた本だった。
その上空で、リオンが所有者がいなくなった隙をついて竜の頭に飛び乗った。
「我が呼び声に応えよ。我リオンは汝の所有者なり」
竜の大きな体がぼうっと光を放つ。リオンは竜の所有者として受け入れられた。
「閉じろ」
リオンの命令と共に、竜の巨体が消える。そして、巣の洞窟の姿も消えて、元の、がらんとした石壁の部屋に戻った。
ソフィーは息を吐き出して、セティを拾い上げた。その四角い姿を、胸の前で抱きしめた。
第五章 爆炎の赤竜 おわり




