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ナーアヴェン~ある雨雲の物語~  作者: シャムローズ
第四章:グレーイの帰還
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~アーチ雲~

♪ BGM : マギ - Scat Bizarre_Les Vents_01


 バーダルは戦闘の様子を、朦朧とする意識の中で見つめていた。それにもかかわらず、グレーイに命の危機が迫っていると感じたその瞬間、まるで自動車についている自動ブレーキシステムやエアバッグといった安全装置のように、無意識に、考えることもなく、体がひとりでに愛弟子の元へ飛び出していた。


 刃に貫かれたその体は小刻みに揺れ、胸のあたりに突き刺さる黒い剣を震える手で掴んだ。デュオルクは驚きのあまり眉を上げた。まさかこの年老いた雲が戦いに割り込んでこようとは、露ほども思いもしなかった。その老雲をまるで蚊を追い払うかのような腕の動きで払いのけ、可哀そうな老雲はグレーイの横にぽとり、と落ちた。


「最初に死ぬのはお前だったか、バーダル。」鬼が低くしわがれた声で言った。


 グレーイは真横に落ちてきた師匠をじっと見た。アンシャンの目は大きく開かれ、不自然に手足をばたつかせ痙攣している。大量の水か体からも口からも流れ出ている。突如、唇の間から水流が弾け、灰色の雲に再び勢いよく噴き出してきた。


 その水は熱く、まるで真夏の打ち水のように、すぐに蒸発していった。バーダルの体内から溢れ出す水は、ただの水ではない…雲の血液なのだ。それはどんどん広がってゆき、やがてアンシャンの周囲に大きな水たまりを形成していった。


 ウルナーはとっくに走るのをやめていた。最初はバーダルがここにいることにすら気づいていなかったのだ。しかし、彼の姿を見た瞬間、突然ガクン、と膝から崩れ落ちた。パリとアプルも、少し離れた場所に降り立ったが、事の成り行きがどうなったのか把握し切れていなかった…


 風が吹き、かすかな鋭い音が耳をつんざいた。


 バーダルの顔がゆっくりとグレーイの方へ向いた。唇が微かに震え、何かを伝えようとしているかのようだった。その口からは、水が細い糸のように垂れていた。


 一瞬だが、グレーイには、バーダルが微笑んでいるようにさえ見えた。しかも、こう言われた気がした。「お前は本当にどうしようもないバカだな…」だが、それはバーダルが実際に言ったものではなかった。師匠が最期に残した言葉は、こうだった。


「 む…すこ…よ…」


 それ以上の言葉は聞けなかった。瞼がゆっくりと落ち、閉じた。生命が抜け出て体が空っぽになる様子を、誰もが戦々恐々と見ていた。


 ムーフェは突然、激しい戦慄に襲われた。バーダルが残酷に殺されるのを目の当たりにして、とても嫌な予感に襲われた。まるで何か恐ろしいことが正に今起ころうとしているかのような…


 一方、グレーイの顔に浮かんでいるのは、まるで笑いと苦痛が混ざり合ったような奇妙な表情だった。食いしばっている歯を剝き出しにして、何かを堪えているようであった。しかし、この悲劇的な光景もデュオルクには何の影響も与えなかった。心を喪ったデュオルクはこれ以上待つつもりはない、というように再びグレイに向けて武器を振り上げた。さあ、全てを終わらせよう…


 その瞬間、パリの心に計り知れない憎悪の炎が燃え上がった。バーダルを認識するのに数秒かかったが、真実を理解した瞬間、パリの中で何かが唸りを上げた。


 バーダルは父ロカルンの死後、パリにとって唯一の心の拠り所だった。父親代わりだと思ったことは一度もなかったが、時々遊びに来てくれるご近所さんのように思っていた。


 しかし今、パリは、バーダルに対する本当の気持ちに気が付いた。ただの「ご近所さん」に寄せるには、過ぎた感情を抱いていたことに…


 バーダルは、父を弔えなかったパリが生きる喜びを失わないよう、出来る限りのことをして支え、そして見守ってくれていた。今になって初めて、バーダルが父親代わりとして自分を見てくれていたことに気が付いたのだ。


 『父』の痛ましい最期を目の当たりにして、心がもげそうなほどの激しい自責の念に駆られ、打ちひしがれた。もっと、優しくしてあげれば良かった。もっと、話しておけば良かった。もっと、一緒に過ごせば良かった。


 一緒にいる時間を、大切にすれば良かった。


 バーダルは父親のは大切な友の一エルムであり、ツィムの死後も生き残った唯一の友だった。これから先、討伐部隊を率いたこの伝説的な3エルムはもういない。旧ネフィリア村とその偉大な対抗軍の最後のシンボルの命の灯が、たった今、消えた。


 今度こそ、パリはデュオルクを逃がすつもりはなかった。目にもの見せてやる!今までやってきたことのツケを払わせてやらないと!怒りと悲しみの中、パリは羽毛の爆発の中でエルムの姿へと変貌を遂げ、デュオルクめがけて身を投げた!

 

 パリが戦いに飛び込んでくるのを目にしたムーフェは、瞬時にその場を離れた。飛行しながら、両手に一つずつツの玉を作った。


 時間は確かに進んでいるはずなのに、グレーイの世界の時計は止まってしまった。周りの景色が全てスローモーションに見えた。戦いに加わろうとしているパリとムーフェの姿も目に入らず、自分を殺そうと近付いてくるデュオルクのことすら忘れていた。その目に映るのは、ただ一つ。横たわるバーダルの姿。最後の息を吐き、永遠の静寂に包まれたその姿だけだ。



 あと少しのところだったのに…


 また失敗してしまった…


 あと少しのところだったのに…


 生まれながらに敗北する運命だったのか?


 あと少しのところだったのに…


 運命にはやはり勝てないのか…


 いや、そんなことはない!!!この瞬間、グレーイの心の中で長年封印されていた感情の壺が、とうとう限界を迎えた。それはゆっくりとひび割れ、ついに粉々に砕け散った。ついに! グレーイの心の奥底に眠っていた感情の洪水が、堰を切ったように溢れ出した。


 雨雲は泣き叫んだ。声を振り絞って助けを求めた。言葉にならない思いを込め叫んだ。その叫び声から我々が感じ取れるものは『苦悩』であった。誰でも、何でもいい。この残酷な運命をお願いだから変えてくれ…。そう願いながら叫び続けた。だが、誰に向かって願っているのか、グレーイ自身にも分かっていなかった。誰しもが語る神だろうか? いや、きっと自分の味方ではないだろう…


 では、誰に祈ればいいのか? その問いに答えたのは、意外にも自分自身の内なる感情だった。「怒り」という名の炎は、雨雲に今まで持ったことのない強烈な「意志」を生み出した…殺意という名の…


「お前がしたことの代償を払わせてやる…()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!!!!!!」


 不思議なことに、ネフェリアの民全員がこの声を聞いた。いや、正確に言うと、聞いた気がした。心の中に直接、そのメッセージがなだれ込んできたのだ。


 グレーイの唸り声は増々大きく町全体に響き渡った。そして闇が訪れた。漆黒の闇が、雨雲の体を覆い尽くした。 デュオルクの剣など、この黒く分厚い煙の前には紙切れ同然だった。全く歯が、いや刃が立たなかった。デュオルクは驚愕の表情を浮かべ後ずさりした。パリとムーフェもその場に立ち止まった。


 全員がグレーイ内部でジンが爆発的に膨れ上がるのを感じた。 まるで変身を遂げようとしているかのようであった。しかしそれは、デュオルクがしたものとは違い、グレーイのジンは変化しているのではなく、凄まじい速度で『成長』しているのであった。


 大地は震え、風は吹き荒び、空が黒く染まった。灰と黒の雲が空中で混ざり合い、うねり、大きな渦を巻き、空を飲み込んでいった。


 その雲の渦が、ネフェリアを囲む山々を外側から更に囲む格好で回転している。そしてその強大な雲のアーチは徐々に大きくなりながら、ゆっくりと、町へ近付いて行った。まるで、空そのものが今にも落ちてきそうであった。


 その時、声が聞こえた。


「デュオルク、俺は今やっと分かった…ここに俺が来たのは、バーダルのためだけじゃなかった…バーダルは俺を戦いから遠ざけていた…だから、前はお前の前から項垂れて逃げるしかなかったんだ…俺を侮辱し。辱め、俺の誇りを傷つけたお前の前から。しかし今日、()()()()()()()()()()()()()()()()!!!」


 ネフェリアの町が嵐に揺れる中、グレーイを包んでいた分厚い闇のヴェールが、徐々にグレーイの体の形になっていった。そして何の前触れもなく、その霧は完全に消え去り、そこには変わり果てた姿のグレーイが立っていた。


 暗く染まった肌。煙のような髪は、まるで電気を帯びているかのようにあらゆる方向に狂い、衣服はボロボロだ。 ゆっくりと開かれたその目の中には、虹彩も瞳孔もない、真っ白の目が輝いていた。


 その魚卵を思わせる白い目から純白の煙が立ち上り、銀色の霧が全身を包んで揺らめいていた。唇は完全に消え、まるで顔全体が口を覆う仮面のようになっていた。それでもグレーイが発した言葉は、ネフェリアの果てにいる住民たちでさえ、その声をはっきりと聞くことができた。


「今日、この場でお前たちの長の命を絶つと約束しよう。お前たち全員の目の前で、デュオルクを殺してやる…。デュオルク、死を迎える準備をしろ。」


 その言葉を聞いた雲たち全員が、ハッと息を飲んだ。現場にいた住民は誰一雲として、本当に一雲たちも、こんな光景を目にしたことがなかった。住民たちはただ驚愕し、同時に、この新しい存在に少しだけ興味を掻き立てられながら、黒い雲の姿を見つめていた。


 しかし、パリだけは違う目線でそれを見つめていた。


 ネフェリアの「ハルの石」は、氷山の一角だ。この都市にはまだ秘密が隠されている。討伐部隊から帰還した雲たちは、ある事実を黙っていたのだ。そもそも、誰もそれを言葉で説明できる者はいなかったし、何よりもその存在を語れば、住民たちに恐怖を与えるだけだと理解していたからだ。


 『黒の戦争』…戦場から戻ったパリの父、ロカルンが語ってくれた言葉が、パリの記憶を揺さぶった。


「あの第二の謎めいた灰色の雲がいなければ、我々は全員死んでいただろう。アロイ、いや、アロイが変わり果てた姿が、敵を打ち破ったのだ。そして、戦いの末にアロイが満身創痍になったことで、我々はやっと勝利を手にした。しかしだ…パリよ、覚えておけ。俺はこの目で見たんだ。灰色の雲には、心の奥底に怪物が潜んでいる…。その怪物は、ヤツらの心と同じくらい黒いんだ…!」


 その時の父の言葉が、パリの脳裏にはまだ鮮明に残っていた。


「やはり、そうだったのね…」と、フクロウはつぶやいた。白の貴婦人は、友の変わり果てた姿を見てこう言った。「グレーイ、ついにあんたも黒い雲になっちゃったのね…」


挿絵(By みてみん)

グレーイは、その悲しみと怒りを解き放ち、無慈悲な存在へと変貌を遂げた。

いよいよ戦いの最終幕が上がる…

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