~喪失~
♪ BGM : ひぐらしのなく頃に- Riyuu
真夜中。みんなが眠りについた頃、グレーイは静かに起き上がった。アグニズは隣のベッドで眠っていた。まるで部屋に暖炉があるみたいだ。その炎は、燃えてはいないのに、わずかに温かさを放っていた。ただの湯気のように揺らめいている。カルシネ大陸のエルムとは、つくづく常識を超えた存在らしい。
グレーイはここまでの道のりを思い返した。
アンシャンバーダルとの出会い。雲の都。ネフェリアへの到着。デュオルク。そして、ベール大陸。アンジール、アンシャンドラクトとの邂逅。全てを一変させたアルドン帝国の侵略…そして今、ディオネ一族の家で、火のエルムと共にいる。
思い出の最後に浮かんだのは、アプルの変わり果てた顔だった
この物語には果たして…意味があるのだろうか?初めて目を開けたあの日のことを、グレーイはまだ覚えていた。この世界で何が待ち受けているかなど、想像することなど決して出来なかった。素晴らしい世界、美しい生き物が住まうこの世界は、実は悪に蝕まれていたのだ。
みんなが話している神は、本当に存在するのだろうか。それとも、理由のない全てのことに理由を与えるために作られた作り話に過ぎないのだろうか。アンシャンバーダルは言った。『いつかお前も理解し、存在を信じるようになる:と。しかし今の心境は正反対だった。進めば進むほど、存在を信じたくなくなっている…。
数分間、アンシャンドラクトに教えてもらった通り瞑想をした後、グレーイは部屋を出た。瞑想をしても、頭の中はアプルの哀れな姿で埋め尽くされ、胸のざわつきは止まらなかった。隠れながら何度も何度も見た彼女の姿を、もう一度見たくてたまらなかった。アプルに完全にのめり込んでいた。
彼女の天性の魅力のせいだろうか。魂のせいだろうか。理由は分からない。
床が軋んだ。グレーイはつま先で、そっと歩かなければならなかった。寝室の扉の前に着いたが、長い間開けるのを躊躇した。もう逃げないと誓ったはずじゃなかったか。少し逡巡した後、ついに、彼は扉を開けた。
優しい光が部屋に差し込んでいた。晴れ渡った夜空から、月明かりと星明かりが降り注いでいる。驚いたことに、アプルはベッドに座っていた。独りで、完全な静寂の中、顔を窓と光の方に向けて。
アプルは雨雲の方を振り向いた。そして数秒後、視線を落とし、灰色の雲から目をそらした。居心地の悪さを打ち破るために、グレーイは話しかけた。
「具合はどう?」恥ずかしそうに尋ねた。
「大丈夫よ。」とアプルは少し躊躇ってから答えた。
「いつ目覚めたの?」
答えはなかった。グレーイには、彼女が混乱しているように見えた。突然現れた自分に、どう反応すればいいか分からないのだろう。つまり、今は会いに来るべき時ではなかったようだ。しかし、立ち去ろうとした時、アプルが不意に叫んだ。
「待って!」
「どうしたの?」とグレーイは足を止めて答えた。
「いたかったら、いてもいいわよ。」
「急に入ってきてごめん…今はまだ話す気分じゃなければ、明日話そう。気持ちは分かるから!」
「だ、大丈夫よ。」とアプルはくぐもった声で言った。
理解できないほどにもごもごと呟いた。グレーイは彼女の最後の言葉さえ聞き取れなかった。
「え?」グレーイは聞き返した。
「いていいって言ったの。」とアプルは少し声を張り上げた。「ごめんなさい。口をうまく開けられないの。少し動かすだけで、顔中が引っ張られる感じがするわ。」
哀れな彼女はまだひどく苦しんでいるに違いなかった。それに、故郷、地元のエルムたち、家族に何が起きたのか、きっと分かっていないだろう。
「アプル、何が起きたか覚えてる?」とグレーイは尋ねた。
「顔の感覚がなくなって、体は痛いし、左目を開こうとしても、ずっと閉じたままみたいなの。」
グレーイは何も答えられなかった。なんて言葉をかけてあげたらいいのか分からなくなっていた。突然部屋に来るより、翌日まで待った方が良かったのではないか。そしてまたグレーイは指を噛み始めた。この癖がまだ抜けないでいる。
「全部覚えているわ。」とアプルがぎこちない笑みを浮かべながら言った。「暗闇に沈んでいても、あなたたちの話していたことは全部聞こえていたわ。アグニズの話も、神の園の結末も、私のことを看病してくださっていたヒーラーのお話でさえ、全て…。」
グレーイは口から指を話さなかった。むしろ、歯で噛んだところに穴が空き、そこからお湯がツーっと出てくるほどまでに深く噛んでいた。アプルの表情は苦悩に満ちていた。グレーイにはどうすることもできなかった。
「私は全て失ったわ。」アプルが弱くかすれた声で続けた。「私には何もない。生まれ育った土地も、家も、友達も、家族も、顔まで…何が私に残っているというの?もう…なにも…何もかもなくなってしまったのよ、グレーイ。両親も、兄も、姪も、それから…おじさんまで…わ、私には…」
彼女の痛みがその声を通して伝わってくる。彼女は深く傷付き動揺している。彼女を励ましたい。でも出来るだろうか?本人も知らないが、グレーイは素晴らしい武器を持っている。高い共感力だ。
グレーイはそっと彼女に近付き、膝を地面についてアプルの目を真っすぐに見据えた。そして、グレーイは自分の思いの思いの丈を話し始めた。
「アプル、聞いて。君が話したい時、俺が傍にいる。君が泣きたい時も俺が傍にいる。例え世界が崩壊したって俺が君の傍にいる。みんな君と一緒だよ。孤独じゃない。俺たちはお互いのことをまだ良く知らないけど、君が少しでもこの苦難の時を乗り越えられるなら、俺は喜んでそうするよ。」
「ほんと、私たち、泣き顔を見せるほど仲良くなってないわよね。」とアプルがふっと奇妙に笑った。
その言葉とは裏腹に、涙が瞳から零れ落ち、緋色の頬をつたって落ちた。声をつまらせながら泣く彼女を見て、雨雲は立ち上がりおずおずと、どぎまぎしながら肩に手を置いた。言うまでもなく、前回のように抱き寄せるのはやめておいた。
「君はまだ尊い命を生きているじゃないか。君の力と勇気が君に生きろと言ったんだよ。君は戦士だ。だからお願い、希望を持って!」
グレーイは恥ずかしそうに、おずおずと静かに笑った。そして視線を宙に泳がせた。痛みと後悔がまだ彼の中にもあるのだ。
「俺を見ろよ。」と雨雲は溜息をついた。「俺は逃げて、失ってばかりだった…なにも変えられなかった。だけど、誰がこれを『失敗』と呼べる?色々なことがあったけれど、結局俺はまだ自分の足で立ち、進んでいる。希望を持って、この道の先に光を見つけることが出来ると信じているんだ。」
「おじさんがよく言っていたわ。『負けると決めた時に負ける』と。」
「彼らしいな。」
「なにか言った?」
「いや…おじさんのことはよく聞いていたよ。…それよりも、昔同じことを言われたことがある。ネフェリアという雲の町で出会った小さなエルムに。小さいけれど決して負けはしないエルムに!」
アプルは目の端でグレーイを見ていた。主人公は、アプルが今の話をちゃんと受け止めているのか疑問に思った。とにかく、独りで落ち込ませておくよりはましだろう。
「俺も、もう敵から逃げたりしないと、変わると誓うよ。」とグレーイが続けた。「諦めないで。アルドン帝国のヤツらを勝たせてしまう。もちろん泣いてもいいよ。泣くことの何が悪い!でも気をしっかり持って。昔の俺みたいにはならないで。」
そう言いながら、グレーイはまたぎこちなく笑った。それでも雨雲の言葉はしっかりとアプルの心に届いた。この赤りんごは微笑んだ。雨雲がアプルにのしかかる重圧を少し取り除けた証拠だ。
「でも…私はこれからどうすればいいの?何の為に生きればいいの?このエルム生に何の価値が?」
「君が俺にそれを聞くなんて面白いな…実は、俺もずっとそれについて考えているんだ。この世界がなぜ存在するのか…一緒に答えを探してみない?」
アプルはグレーイの方に向き直った。後ろから指す光で、アプルの顔が朧げにしか見えない。この赤りんごがどんな表情をしているのか想像し、どんな答えがその口から漏れ出てくるのか怖くなった。アプルは短くこう答えた。
「いいわよ。」
グレーイは茫然としながら微笑んだ。
「ねえグレーイ。あなたの話も聞かせてくれる?」と、黒い煙が頭上でユラユラと揺れている若いエルムに、好奇心を掻き立てられて尋ねた。
「えっと…俺の話?」グレーイがドギマギしながら答えた。「えっと…でももう遅いし…休んだ方がいいんじゃない?もし良かったら明日聞かせてあげるよ!」
「それでも、私の傍にもう少しだけいてくれる?」
アプルはこの一言を、ほとんど聞き取れないくらいの小さな声で言った。言った後、なんでこんな恥ずかしいことを言ってしまったのだろう、と赤い顔のトーンが明るくなった。しかし雨雲は全く気付かなかった。
「君の好きなだけいてあげるよ、アプル。」グレーイが最高の笑顔を浮かべて答えた。
灰色の雲は、ベッドの反対側、アプルの足元に腰を下ろした。そこからなら、彼女をもっとよく見ることができる。空の輝きが、直接彼女の顔に降り注いでいた。赤りんごは、この部屋に入った時から、ずっと目の端でグレーイを見ていた。まるで、正面から向き合うことを拒むように。火傷を隠したかったのだろう。しかし、今、グレーイにはその全貌が見えた。そして、確信した。……アプルは今でも、こんなにも美しい!
アプルとグレーイの間に美しい友情が芽生えようとしていた。.
だが明日はどんな日になるだろう。驚くようなことがまた起きるかもしれない…




