夢浮橋④
桜の花びらが舞い散る中、我が子を優しく抱きしめる紫の上の姿があります。
その穏やかさは、光る君にとって世界のすべてでした。
十歳で攫うように連れ帰ったあの日から、紫の上を失うまでの三十三年。
彼は傷つけている現実から目を背け、素直な言葉すら告げられずにいた。
それは——愛するがゆえの、致命的な臆病。
近くに温もりがあるのに満たされることはなく、誤魔化すように外に渇きを向けた。
思いやるほどすれ違い、間違いばかりを重ねていった。
そして時を遡り、また同じように十歳の紫の上を手元に置いた十年間。
手放そうともがき続けてもできず、ならば変わるしかないと、己を律し、彼女の幸せのためにそばにいることを選び続けた十年でもあった。
少しずつ変わってゆく運命は、光る君だけの奔走ではなく、
過去を知りながらも愛されようと、幸せになろうと選んだ、
紫の上自身の強さの結晶でした。
今生では悔いなく、真に幸せにしたい人を正面から見つめるだけで、世界がこれほど美しい光景を見せてくれるのか。
眩しさに、光る君は思わず目を細め、込み上げる涙を堪える。
「紫」
「あなた。見て、桜が……こんなに」
「二人とも、まるで桜の精のようだ。ほら、花びらが」
光る君は舞い落ちた花びらをそっと摘み、紫の上の頬を優しく撫でます。
確かめるように手に寄り添う紫の上の柔らかさ。
その温かさが、生きている尊さを教えてくれるようです。
若くして散り、見送ることしかできなかったあの日とは違う。
目の前の紫の上は、温もりを持って微笑み、問いかける。
「あなた。私……強かったでしょうか?」
最期に呟いた言葉。
光る君の胸に深く刻まれた悔恨が疼きます。
『……わたくし……強かったでしょうか……?』
紫の上を失った、あの日のことは、今でも思い起こすと不安に駆られないことはありません。
けれど彼は、震える声で応えます。
「紫。あなたは最初から、今も、ずっと強く、美しい。
あなたの強さが、優しさが、俺の人生を変えてくれたんだ」
そして、今度は光の君が紫の上に問いかけます。
「紫……あなたの孤独は、まだ続いているだろうか。
前の世のように……ひとりではないか」
最大の恐怖が、まだ彼女の中にあるのではないかという。
答えを聞くのが怖くもあります。
それでも、どうしても確かめたかったのです。
「……あなたは、どちらだと思いますか?」
「ずいぶん、いじわるなことを聞き返すんだね」
クスクスと出会ったころと同じように、鈴の音のようなよく通る笑い声が紫の上から聞こえます。
それが何よりの答えと知りながら、確認せずにはいられないのです。
「あなた。好きです。愛しています。
これからも……ずっと、あなたの一番でいさせてください」
「俺は誓うよ。今までも。これからもずっと。
すべての幸せを、紫に」
紫の上の笑みに誘われるように、抱かれた赤子までふわりと微笑んでいます。
春の日差し、舞う桜、寄り添う妻と子。
光る君が生涯求めながら届かなかったものが、今はすべて、
手の中にあるのです。
満たされない夜も、泣きながら過ごす夜も、二度と二人には訪れることはないのです。
この先もずっと——
千年の時を超えても。
『源氏物語逆行溺愛絵巻―紫の上を失った光る君は、もう一度春へ戻る―』は、この最終話をもって完結となります。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
千年前のお話を元にしたこの物語が、静かな夜の記憶としてあなたの心に残りますように。
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