若菜③
身分の低さゆえに抱えてきた影。
それらすべてが消えていくような、満ちていくような感覚。
「……嘘。そんな……私……」
両手で口を覆った瞬間、ぽろり、と涙が落ち、次の瞬間にはもう止まりませんでした。
許された、与えられた、結ばれた——
その事実が胸いっぱいにあふれて。
「私が……殿のお子を……あぁ、どうしましょう……」
「奥様。殿はすぐにでもお側へ参りとうございますが……
『紫を驚かせるな、目覚めてからにせよ』と、
廊にて一歩も動かれず控えておられます」
「……殿……会いたい。すぐに会いたいの……」
名前を口にしただけで胸がぎゅっと締めつけられる。
紫の上は涙を拭い、自らの腹にそっと手を添えた。
そこにはまだ形にならない温もりだけ。
けれど確かに——光る君との未来が芽吹いている。
その時。
几帳の外で衣擦れがして、誰より待ち望んだ声が響いた。
「紫……?本当に起きて、大丈夫なのか」
その声音だけで、胸が震える。
几帳がふわりと上がり、光る君が姿を見せた。
顔には、宮中での緊張も恐怖も、すべてを飲み込んだ安堵がひろがり、紫の上を見つけた途端、張り詰めていたものが崩れるように柔らかく微笑んだ。
「……あなた……私たちの……」
言葉にならない続きが、二人の間でそっと重なる。
光る君は震える指先で紫の上の頬に触れ、紫の上はその手を包むように重ねて、静かに微笑んだ。
——曲水宴で並んだ『春』。
流れゆく盃に託した愛は、いま静かな寝所で、新しい命として芽吹いている。
その夜、二人の世界は音もなく結ばれ、未来へ向かう絆が、
誰にも壊せないほど深く育っていったのでした。
秋の夜が白みはじめた頃。
邸の奥——産屋の几帳の内から、押し殺すような、苦痛に満ちたうめき声が響きました。
紫の上の陣痛が、ついに始まったのです。
光る君は廂の外で膝をつき、冷たい板の間に指を押しつけるようにして身を乗り出しました。
「紫……大丈夫か……?俺はここにいる……!」
「殿……!今は近づかれてはなりませぬ!
奥様のご負担になります!
穢れの時、男君は入ってはなりませぬ!」
女房の張り詰めた声が響くたび、光る君は奥歯をきしませ、顔を歪めます。
——几帳の向こうで、紫が苦しんでいる。
それなのに、触れることも抱くこともできない。
それは光る君にとって、死にも等しい焦燥でした。
「紫が……あれほど痛みに耐えているのに……っ!
せめて、手を……抱きしめるだけでも……!」
「殿!奥様は必死でございます。
今、男君が入れば奥様が余計に気を張られまする!」
光る君は拳を固く握りしめ、何度も廂の柱へ額を押しつけた。
紫の上の苦しむ声が、木を伝い、空気を震わせ、そのたびに光る君の心が刃物で削られるように痛むばかり。
「……紫……耐えてくれ……どうか……」
胸の奥が灼けつくように締めつけられ、ふと、あの地獄の夜が脳裏を閃光のようによぎります。
——葵の上の出産。
血の気のない顔、途切れた息。
女房たちの悲鳴にも似た声。
光る君はあの悪夢を二度と繰り返したくなかった。
紫だけは、あのように失いたくない。
「……紫だけは……!」
また、几帳の内から絞り出すような苦しげなうめき声がするたびに、紫の上が、どれほど痛みに耐えているかが肌を通して伝わってきます。
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