若菜②
春の水辺は、空の青と桜の薄紅がゆるやかに溶け合い、流れに浮かべられた杯が、陽光を受けてきらめきながらゆるりと揺れていた。
水のせせらぎに合わせるよう、楽人の琴の音が軽やかな波紋を広げ、その場はまさに絵巻物のような雅の極みであった。
紫の上は普段にはない華やぎに頬を染め、胸の奥がふわりと高揚していた。
光る君は、その横顔を黄金のまなざしで見つめるだけで胸の奥がじりじりと焦げるほどだった。
「紫。こうして人前に並ぶのは久しぶりだね」
「えぇ。水の流れも、琴の音も心地よくて……
春の水は、思ったよりも冷たくて」
その一言が、光る君の心の奥を鋭く射抜く。
流れに乗った盃が、まるで運命に導かれるように二人の前でぴたりと止まった。
「紫。あなたの番だよ。この春の思いを、歌に託して」
紫の上は盃を手に取り、水面のように澄んだ声で詠む。
「水の音に 春のゆくへを預けつつ
あなたと並ぶ 今日を宝と知る」
春風が桜を揺らし、光る君はあまりの美しさに息を忘れる。
彼女が盃を返すその手をそっと包み、紫の上は微かに頬を赤らめた。
その手はほんのりと熱を帯び、春の光に透けて、さらに愛おしくなるのでした。
行事を終えて帰邸した直後だった。
褹の袖を整えようとした紫の上が、ふらりと身を傾けます。
「紫?どうした、顔色が悪い」
「だいじょうぶ……ほんの少し、疲れが——」
言い終えるより早く、光る君の胸へ沈むように倒れ込んだ。
「紫!!誰か医師を呼べ!」
邸中が騒ぎ、光る君は抱き上げたまま几帳の奥へ駆け込む。
かつて葵の上や藤壺の宮を苦しめた悪夢が、胸に蘇りました。
——まさか、また……呪いか、病の再発か。
震える指で頬に触れれば、紫の呼吸は穏やかで、熱もない。
ただ、深い眠りへ落ちているだけ——それだけなのに、光る君は胸が裂けそうだった。
そこへ、長年紫の上を見守ってきた老女房が静かに進み出て、深く頭を下げた。
「殿。ご安心くださいませ。呪いでも病でもございませぬ」
「では……紫に何が……」
「——慶事。ご懐妊の兆しにございます。
殿のお子を宿されております」
光る君は、呼吸も忘れたように動きを止めた。
「……紫が……?俺の子を……?」
驚愕も歓喜も追いつけず、ただ呆然と見つめる中——
眠りの中にいる紫の上の指が、そっと光る君の衣を掴んだ。
まるで、まだ言葉にはならぬ小さな命が『ここにいますよ』 と囁くように。
「……あなた……私……」
微かに意識を戻しながら、紫の上が夢と現のあいだで浮かべた微笑みは、この世のどんな宝より尊かった。
光る君は胸が痛くなるほどの愛しさを抱えながら、静かに紫の上を抱き締めた。
春の水のきらめきよりも美しい——
二人の未来の光が、そこに宿っていた。
外は夜の帳に包まれ、静けさの深まる冬の夜でした。
曲水宴の疲れと、光る君の腕に抱かれた愛の余韻のまま几帳へ運ばれて……
紫の上はどれほど眠っていたのでしょう。
ぼんやりと瞼を持ち上げると、まだ熱を帯びた視界が揺れ、
紫の上はゆっくりと身を起こします。
そのわずかな動きに気づいた老女房が、涙ぐんだ顔でそっと語りかけました。
「……奥様。お目覚めでございますか」
「……私、倒れてしまったの……?」
「えぇ。でも、どうかご心配なさらず……
これは、この上ないよき知らせにございます」
老女房は深く頭を垂れ、喜びを抑えきれない声で告げます。
「奥様——おめでとうございます。
殿のお子を、このお腹に授かっておいでです」
「…………え……?」
あまりにも甘く、あまりにも突然の幸福で、紫の上の声が震えました。
すぐには胸に落ちてこない。
けれど、老女房は微笑み、紫の上の手を包み込みます。
「私が……?この私が、やや子を……?」
「はい。殿はそれはもう……
涙を落とされるほどにお喜びでございました。
どれほど、この時を待ち望んでおられたか……」
その言葉が胸に触れた瞬間、
紫の上の奥深くで固く結ばれていた『欠け』が、静かに解けてゆくのです。
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