若菜①
須磨か。
時を遡る前、泣きながら連れて行ってほしいという紫の上を京において行った。
紫の上を置いて行ったことは、光る君の最大の過ちだったともいえます。
今思えば、離れられるわけもないのです。
むしろ——
『紫と二人でいられるなら』という確信すら滲んでいた。
須磨の荒波も、孤独も、紫の上となら耐えられる。
むしろ、誰にも邪魔されぬ静かな暮らしを、紫に与え、寄り添いながら過ごせるのかもしれません。
「流刑ならば、なおさら。
私は紫の手を取り、喜んで共に参りましょう。
二人で静かに過ごすのも、この喧騒にいるより悪くはございません」
「……なに?本心でそう申しておるのか」
帝の声に、初めて揺らぎが生まれた。
威光ですら届かぬような意志の強さに、広間の者たちがざわめきを飲み込む。
『帝ですら屈させる愛』というものを、まざまざと見せつけられたからだ。
やがて帝は深く息をつき、負けを認めるように静かに目を閉じた。
「……そこまで言うなら、よい。この話は、もうよそう。
そなたの意志に負けた」
「ありがたく存じます」
光る君は深く礼をし、その背に迷いは一片もなかった。
広間を出てゆくその姿は、ただひとりの妻のために世界を曲げてしまう男の、それでいて静謐な強さを湛えていた。
――そして。
帰邸した光る君に、紫の上はそっと歩み寄り、肩に落ちた雪を払ってあげながら、ふと視線を落とす。
彼の肩に降り積もった白は、まるで今しがた受けた帝の圧など、何ひとつ残していないかのように淡い。
「もし本当に……須磨へ下られることになったら……
あなたはどうなさったの」
「心配せずとも、あなたを必ず連れて行くよ」
光る君が即答すると、紫の上は胸の奥でひそませていた思いを、そっと水面に浮かべるように口を開いた。
その声音は震えていない。むしろ静かに澄んでいて、光る君は自然と眉を寄せ、紫の上の手を取り胸に抱き寄せた。
紫の上はかすかに微笑み、指先を光る君の衣に絡めながら首を振った。
「……いいえ、違うのです。須磨が怖いのではありません。
あなたのそばにいられるのなら、どこでも」
「では……?」
「——私、海を見たことがないのです」
「海を……?」
光る君の呼吸が止まった。
そのあまりに純粋で、清らかな告白は、心の奥深くを不意に突くようです。
紫の上は光る君の胸元に頬を寄せ、柔らかな声で続けた。
「えぇ。あなたが聞かせてくださった、夕暮れの浜の色、
月を映す波のきらめき、風の音……
どれも物語の中で知っているだけで、想像するしかなくて」
顔を上げた紫の上の瞳は雪明かりを映し、涙にも似た透明な光を帯びていた。
「だから、行けと言われたなら……その時は、あなたと一緒に海を見たいの。あなたの悲しみや、歓びが宿った場所を。
あなたの隣で、あなたの見た景色を、同じように見てみたい」
光る君の胸に、熱とも痛みともつかぬ感情がこみ上げる。
なぜだろう。
どうしてこの娘は、いつも自分より先に、自分の未来を考えてくれるのだ。
光る君は紫の上の指を包み込み、その額にそっと唇を落とした。
「……紫。あなたと見る須磨の海は、
きっとこの世で一番美しいに違いない」
「ふふ。私も……あなたと同じ気持ちです」
紫の上は目を細め、光る君の胸の中で静かに息をついた。
光る君はその身体を強く、永遠を誓うように抱き寄せる。
紫の言葉も、その温もりも、すべてを胸の奥深くに刻み込むように。
その夜、本来なら恐怖と孤独の象徴であったはずの『須磨』は、
二人にとって『いつか共に見に行く未来の景色』へと静かに姿を変えた。
——二人の愛は、運命すらも凌駕したのです。
ブックマーク、☆☆☆☆☆、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




