明石①
女三の宮の降嫁拒否――
この話は瞬く間に宮中を駆け巡り、風よりも早く、尾ひれをつけて広まっていく。
『光る君は女三の宮と恋仲らしい』
『女三の宮はすでに懐妊しているのでは』
『女三の宮より紫の上を選んだらしい』
その噂は、甘い愛とともに『危機』の影を孕みながら、
当然のように紫の上の耳にも届くのです。
心の奥に、長く忘れていたはずの痛みと予感が、そっと、
しかし確実に蘇るのであった。
外では、しんしんと雪が降りはじめ、女房が慌てて蔀戸を閉じると、火鉢にくべられた上質な炭が、時折ぱち、と崩れる音を立てる。
雪の静寂の中で、その小さな音だけが幾帳の内にやさしく響いていた。
紫の上は薄絹の袖に包まれ、火鉢の温もりで染まった頬のまま、ゆっくりと舞い落ちる雪を眺めている。
「殿は……いつごろお戻りかしら。
夕餉は温かいものにしましょうか。
汁物は、もう少し熱く……」
「承りました。厨房へそのように。
この雪では、お早めにお戻りになればよいのですが」
今朝も、昨日も、その前も。
妻となってからというもの、光る君は一日たりとも紫の上と夜を別にすることがなかった。
夏の夜の暑さも、冬の夜の冷たさすらも関係なく、互いの温もりを求めあって眠る日々。
昼すら離れていれば文が届き、返事を待つ間もなく情熱的な歌が届き、四季折々の花、香、衣……
そのどれ一つとして絶えることはない。
――愛されている。これ以上ないほどに。
私は大丈夫。
あの噂など、きっと届かない。
雪が積もるように、紫の上は自らの胸に何度も言い聞かせる。
「……私ね、不思議となにも不安じゃないの」
誰にも向けない小さな声は、雪の気配に吸い込まれるように消えた。
しばらくして、雪を踏みしめる重く、確かな音が、遠くから静かに近づいてまいります。
几帳の向こうで女房が立ち上がり、期待を込めて囁いた。
「……殿、お邸にお戻りです。門をお通りになりました」
蔀戸の向こう、雪を払う仕草とともに、白い吐息を散らしながら光る君の姿が現れる。
雪の中を歩いたせいか、頬も指先も驚くほど冷えている。
その冷たさは、まるで昼の宮中の空気までも帯びてきたようだった。
「あなた……そんなに冷えて……。早く、火鉢のそばへ」
思わず駆け寄った紫の上は、その頬にそっと両手を添えた。
触れた指先は火鉢の温もりを宿していて、その瞬間、光る君はふっと息を漏らして目を閉じます。
「……紫。あなたの手は、本当にあたたかい……。
宮中での冷たさが、全部溶けていくみたいだ」
紫の上は安堵したように微笑み、光る君の髪に積もった雪を片手で払い落としてくれます。
「寒かったでしょう。夕餉は、熱いものをご用意させてあるの。すぐに温まりまって」
「嬉しいよ。あなたのいる家へ帰ると……
外の世界の厳しさも、寒さも、本当に忘れてしまいそうだ」
その声音に、紫の上の胸が、じんわりと甘く疼くばかり。
ぱちり、と火鉢が弾け、揺れる灯りが二人の影を重ね合わせ、近づいた距離は、もはや誰にも割り込ませられない確かなものでした。
「紫の顔を見るだけで、こんなに安心するなんて」
「あなた……」
光る君は紫の上の手をそっと握り、胸元へ引き寄せる。
衣越しに伝わる熱い鼓動が、まるで愛を直接聞かせるようで、
紫の上の声はかすかに震えた。
それは不安ではなく、胸が愛でいっぱいになってしまう幸福の震えだった。
光る君はその細い指先へ、感謝とも独占ともつかぬ愛を込めて唇を寄せる。
「今夜は……あなたと静かに過ごしたい。
雪の夜は、あなたと寄り添うのが一番あたたかい」
囁きだけで、紫の上の頬はほのかに赤くなり、雪灯りに照らされたように柔らかく輝くのです。
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