藤裏葉④
紫の上を正式に妻とした春から、愛の余熱とともに季節は巡り、庭の木々がすべての葉を落とす冬の頃――。
毎朝、目を開けると、昨夜一晩中抱きしめていた温もりをそのまま纏った紫の上が、安らかな寝息を立てて腕の中にいる。
愛しい人の肌のぬくもりと甘い余韻のまま目覚めるなど、
かつての奔放な日々には思いもよらなかった至福であった。
暁の鳥が鳴いても、夜明け前に慌てて帰る必要もない。
ただ抱き寄せ、頬に触れれば、紫の上はすぐに艶やかな紅を帯びる。
その瞬間、昨晩の甘く深い契りの記憶が鮮やかに蘇る。
日に日に熟れて甘さを増す果実のように、彼女の反応は愛らしく、そして美しく、光る君の魂を満たしてやまない。
理想通りに美しく成長し、夜も、光る君が教えたとおりの可憐な声を返す。
ふたりは、身も心も、完全な夫婦として結ばれていた。
「……まいったな。本当に溺れてしまいそうだ」
そう呟くと、紫の上の長い睫毛がふるりと震えた。
「……あなた……おはようございます」
「ああ。今日は出仕せず、このまま過ごそうかな。
あなたと、この温もりを離したくない」
「えぇ!?まさか……」
羞恥と愛が入り混じったその唇を塞げば、甘い吐息。
頬から耳、首筋へとうつる紅潮は、まるで光る君の愛を映すようであった。
「俺と二人きりでいるのは、嬉しくないの?」
「……嬉しいに決まって……」
「じゃあ決まりだ。今日も、この腕の中で抱かれてくれるね」
時を遡る前にも、このような姿を何度も見ていたはずなのに。
あの頃は、愛がどこか欠けていた。
今は、見るたびに、触れるたびに、もっと欲しくなる。
満たされても、足りない。
なぜ——こんなにも愛らしい人を置いて、他の心のない女たちのもとへ通えたのか。
この世のどこを探しても、紫の上以上の反応を返す人などいないというのに。
春は、月夜の下で淡い衣越しに肌を温め合い。
夏は、滴る汗すら指で掬って味わい。
秋には、月光に照らされた頬と身体に、愛おしき影を落とす。
季節ごとに深まる愛は、まさに今生の運命の番を見つけたかのようだった。
——この幸福が、この先も終わることなく続いていくものだと。
光る君も、紫の上も、心からそう信じて疑わなかった。
季節が変わり、木枯らしが邸の簀子を鳴らす冬のある日。
紫の上にとって最大の試練ともいえる存在――
あの、過去の悲劇の象徴が、ついに姿を現すことになる。
光る君の兄が帝位についたある朝のこと。
「光る君。女三の宮が年頃になられた。
皇女の身として、そなたほどふさわしい者もおるまい。
もう一人くらい、妻をそなたの邸に迎えてはどうか」
その一言に、朝臣たちは一様に息を呑む。
それは『提案』と呼ぶにはあまりに強い。
ほとんど勅命であり、拒めば帝の怒りを買いかねない。
しかし、その名が指す人物こそ――
かつて紫の上の心を引き裂き、孤独と絶望に沈ませた、
あの女三の宮であった。
光る君の最初の妻、北の方であった葵の上。
その葵の上以上の地位と血筋を持ち、光る君の姪であり、
何より『初恋の人』である藤壺の宮の異母妹。
時を遡る前の光る君は、藤壺の幻影に囚われたまま女三の宮を迎え、その結果、紫の上は誰にも言えぬ孤独を抱えたまま弱り果てていった。
光る君は、その未来を誰よりも知っています。
女三の宮がどんな人かも。
けれど、時を遡る前の女三の宮ではなく、藤壺の宮に瓜二つだとしたら?
だが――
いまの光る君にとって、そのどれも心を動かす要素ではなかった。
藤壺の宮への初恋は、紫の上という生涯の妻の愛によって、
奇麗に、美しいまま、過去の思い出として光る君の中では終焉を迎えているのです。
今は、もてる愛のすべてを紫の上に捧げて当然と思えるほどに、彼女を深く愛している。
他の誰にも、その愛を一瞬たりとも分けたいと思わない。
「恐れながら――この光る君、謹んでお断り申し上げます」
静かだが、迷いの欠片もない声。
朝堂の空気がざわりと揺れ、帝は驚いたように目を細める。
「……女三の宮は朕のたった一人の娘だ。
朕の頼みを、なぜ断る?」
光る君は深く頭を下げたまま、しかし目には一切の濁りも怯えもない。
「何故、お受けできましょう。
唯一、愛を誓い、添うと決めた妻がいるというのに。
紫だけで十分にございます。
これ以上の妻を望むことは、決してございません」
その響きは、静かでありながら、雷に似た重みを持っていた。
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