藤裏葉②
「……おにいさま……どうしたの?」
紫の上がおそるおそる名前を呼ぶと、光る君がすべてを見透かすように柔らかく笑い、
けれど次の瞬間、声音が深く、甘く変わった。
「……紫」
「なぁに……?」
「『おにいさま』は……そろそろやめようか」
「……え……?」
紫の上の心臓がどくん、と跳ねた。
光る君は逃げ道を塞ぐように、そっと抱き寄せて囁く。
「あなたはもう……俺の、誰にも譲らない『妻』なんだよ。
『おにいさま』じゃない。
――俺だけに向ける、正式な呼び方があるだろう?」
「……っ……」
幼いころから八年。
庇護を求める時も、心を寄せる時も、ずっと呼び続けた大切な呼称。
けれど今はもう、それでは足りない。
夫婦としての名を呼ぶ覚悟が、胸の奥から静かにこみ上げてくる。
「……で、でも……その……恥ずかしくて……」
光る君は少し意地悪く、しかし溺れるほど甘い笑みを浮かべた。
「じゃあ、呼んでみて?紫が呼んでくれないと……
俺、泣いてしまうかもしれない」
「な、泣くのはダメ……!」
「じゃあ、ねえ……叶えて?俺の望みを」
紫の上は腕で顔を隠し、逃げたくても逃げられない。
熱が唇に触れるほど近い距離で抱きしめられ、その体温に、
『もう後へは戻れない』と全身で悟らされる。
震える沈黙の後――
紫の上は、羞恥と愛に焼かれた声をしぼるようにして、
耳元でか弱く小さな声で囁くのです。
「……あ……なた……」
光る君の呼吸が一瞬止まった。
紫の上は恥ずかしさのあまり衣にしがみつき、顔を隠す。
頬は昨夜の愛の最中よりも、さらに深い紅。
光る君はその名を受けて、力が抜けるように紫を抱きしめた。
紫の上から呼ばれる「あなた」。
かつて幾度も耳にした呼び名が、今はこんなにも甘く、
胸を貫くとは。
「……紫……あぁ……だめだ……」
「えっ!?ちょっ……苦しい……!」
「嬉しいんだよ。ずっと『おにいさま』だったから……
こんな喜びがあるなんて……」
「……そんなに……?」
「そんなに、じゃない。紫、その声と名を……
もう一度呼んで?その可憐な声で」
紫の上は布団に顔を埋め、震えながら、もう一度小さく呟くのです。
「……あなた……」
その瞬間、光る君は紫の上を惜しみなく抱き寄せ、
身体ごと甘い熱に沈み込むように囁いた。
「三日じゃ足りないな……ずっとこのまま過ごしたくなる」
紫の上は幸福と羞恥で震え、声にならない。
その震えを、光る君はこの世で最も大切な宝物を抱くように包み込んだ。
――こうして、『三日籠り』最後の日、ふたりは『名前』までも愛の契りで結び、永遠の夫婦の絆を、さらに深く刻むのでした。
夕闇がゆっくりと邸を染め始めるころ。
昼間の献身的な甘さの熱が薄れていき、梅の清らかな香が、
静かに几帳の内へと流れ込んでいた。
紫の上は薄紅の袿に着替え、指先で袖をそっと整えながら、
長年の願いが叶った幸福と、その急激な変化への戸惑いで胸を落ち着かせられずにいました。
「……あなた。本当に……この邸の『北の方』に……なれたの?夢ではなく?」
光る君は、柔らかい笑みを浮かべて近づき、紫の前に座ると、
震える手を包み込むように取って、唇をそっと触れます。
「夢じゃないよ。この場所は、これから永遠に……
あなたの座るべき場所だ」
「三日間、俺の腕の中で夜を迎え、今日こうしてあらためて支度を整えて……
公の前で、あなたを正式に『妻』として迎えた。
俺の心に、あなた以外の妻はいない」
「……っ……」
長い不安と、今日の確かな愛の安堵が混ざりあい、涙がぽろりと落ちるではありませんか。
光る君はその雫を指で拭い、深い慈愛を込めて囁きます。
「嬉しい涙?……それとも、まだ不安?」
「……うれしくて。でも、少し……
あまりに幸福すぎて、こわくなってしまって……」
紫の上は袖をぎゅっと握りしめ、その不安がこぼれないように息を押し殺すと、光る君はそっと肩を抱き寄せ、その胸に包み込みます。
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