幻④
光る君は、紫の上から命が抜け落ちてゆく恐怖に、彼女の手を強く握りしめ、声を張り上げる。
「頼む、俺のもとに戻ってくれ……目を開けてくれ……!」
脳裏には、時を遡る前の悪夢が鮮明に蘇る。
冷たくなってゆく手。血の気を失った真珠のような肌。
二度と帰らぬ笑顔。
——なぜ、呪うなら自分ではなく紫なのか。
怒りに満ちて天を仰ぎ、胸の奥の血が沸き立つ。
紫を救えるなら、この身が引き裂かれても構わない。
地獄の底へ堕ちたとしても構わない。
どうか、この美しい人だけは連れて行かないでくれ——。
その一念が、六条御息所の怨念と衝突するように、
紫の上の唇に、かすかな温が戻り、握る指が震え、生者としてのかすかな動きを取り戻した。
「……おにいさま……?」
「紫……!」
光る君は、胸が裂けるほどの安堵の声を押し出し、その小さな手を、今度こそ永遠に離すまいと握りしめると、紫の上は涙をこぼしながら、囁くように言うのです。
「とても……美しい人に……お会いしました……」
その言葉に、光る君の背筋を冷たいものが走る。
やはり——六条御息所。
「私のことを……『呪ってあげない』と……」
そうつぶやくと、ゆっくりと瞳を閉じ、顔色は朝の光を浴びるように温かさを取り戻し、呼吸も静かに整い始めた。
……御息所……
あなたは最後に、女としての矜持と愛を貫いた……
哀しくも、美しい人だった……。
その夜、光る君は紫の上を胸に抱きしめたまま、一睡もせずに朝を迎えるのであった。
——二度と、この人を失わないために。
「でも私は……おにいさまと……夫婦の契りを結びたい……
死ぬまでずっと……そばにいたい……御子を授かりたい……
今度こそ、おにいさまの『いちばん』でいたいのです!」
高熱にうなされ、涙を止めどなく零しながら、生まれて初めて口にした紫の上の切実な願い。
その言葉は、光る君の胸の奥へ、鋭い錐のように深く突き刺さった。
光る君は思い知る。
時を遡る前の己が、紫の上にいかに過酷で、愚かで、許されぬ仕打ちを重ねてきたかを——
血の滲むような痛みとともに、まざまざと思い出してしまう。
紫の上に、亡き藤壺の宮の面影を無意識に重ね、その血筋ゆえに奪うように手元へ置き、己の理想だけを押し付け、奔放な欲に任せて妻とした。
『愛している』と囁いた数刻後には、別の女の元を訪れ、
同じ唇で別人を抱き寄せ、罪悪感なく、紫の上の見えぬ場所で幾人もの女人と関係を結んだ。
流刑の折、泣いて縋る紫の上を一人京に置き去りにし、その先で別の女との間に子を作り、最も愛するはずの紫の上に育てさせた。
あれほど子どもを愛し、慈しむ紫の上が——
我が子を心から望まないはずがありません。これほどまで、
我が子を強く求めていた紫の上に、なんという、仕打ちの数々。
時を重ね、御年を重ねるほどに、己の子を抱けなくなること、
更には、紫の上が最も大切にしていたであろう『北の方』という、正妻の立場すら、別の女に与えてしまうとは。
なぜ、自分は。
どれほど、その身と心を思い悩ませたのか。
なぜ、あの時の自分は、これほどまでに愛おしい紫の上を、
そこまで蔑ろにし、慮らずにいられたのだろうか。
なぜ今の今まで、その決定的な事実に、心の底から思いもよらなかったのか。
いつも、清らかな笑顔で許してくれる紫の上に甘え、
見て見ぬふりをし続けた——泣く姿に気づきながら。
すべて、自分がそのように紫の上を育て上げてしまったのだとわかっていながら。
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