幻②
同じ刻限。
政務の合間、清涼殿の廊下を歩いていた光る君の胸を、
真冬の川面を渡る冷気のような風が、何の前触れもなく突き抜けたのです。
……紫……?
根拠などない。
ただ、紫の上が、今まさに『助けを求めている』と、確かな声が胸の奥で響いたのです。
時を遡る前の記憶にはない感覚。
——紫の身に迫る『人ならざる危機』を、理屈ではなく身体が察知する感覚。
光る君は、その瞬間すべての政務を投げ捨て、馬を走らせ、
息を切らせて紫の寝所に駆け込んだ。
そして——息を呑む。
紫の上が布団の上で熱に浮かされ、頬を火照らせ、かすかに喘いでいる。
呼吸は浅く、胸元はうっすらと汗に濡れ、夜着に張りついている。
「……紫!」
「殿……!恐ろしゅうございます……!
本日、姫様の寝所に……
またしても『影』が……立ちました……!」
女房が光る君の袖を掴み、涙混じりに訴えた途端、光る君の顔色は、血の気が引くように変わる。
胸の奥で、血が逆流する音がした。
沸騰し、黒く煮え立つ怒り。
その時、薄く目を開けた紫の上の細い指が、無意識に光る君の袖を探るように伸びた。
光る君は反射のように、その手を両手で包み込み、頬にそっと触れた。
「……おにいさま……?」
不安と熱の混じった声に、光る君は喉を震わせて応じる。
「紫……もう大丈夫だ。俺がいる。
あなたから離れない……絶対に、離さないよ」
紫の上はその言葉と温もりに安心したように、その胸にすがるように顔を寄せると——
その瞬間、御簾の向こうで白い影が、憎悪に満ちた揺れ方をしたのです。
光る君の背に、静かながら鋭い殺気が宿り、紫を抱き寄せた腕越しに御簾を睨み据える。
……六条御息所……
もし、もう一度だけでも、紫に触れたなら……
俺はもう、貴女を許せない……容赦はできない……
甘やかな愛の夜の翌日に、突然訪れた呪詛の気配。
紫の清らかさと光る君の激しい独占が呼応するように、
六条御息所の怨念が、静かに、しかし確実に動き出していた。
紫の上の胸に宿った熱は、その夜、炎に煽られた焔のように一気に高まった。
寝息は次第に乾き、呼吸は浅く荒くなり、指先からは血の気がすべて引いて、唇は生命の灯が遠のく前触れのように淡く青く染まる。
女房たちは慌てて加持祈祷の準備を始めたが、灯した燭台の火はすぐに揺らぎ、寝所全体の空気が水底のように重く淀みはじめる。
まるで——
誰かが紫の上の『息』そのものを、ゆっくりと、確実に奪おうとしているように。
光る君は、すべての雑念を振り払うように紫を抱き寄せ、
その運命の淵から引き戻すように胸に抱きしめた。
そのころ紫の意識は、肉体という牢を離れ、薄く揺れ、
かすかな灯のように、この世とあの世の境をさまよい始めていたのである。
……ここは……どこ……?
この暗がりと、胸を締めつけるような重い香の、その先に——
薄闇の底、枕元の帳の際に、朝霧のように淡い白の衣をまとった女が立っていた。
その顔には、激情も、激しい怒りも、憎しみも見当たらない。
ただ、永い年月をかけて降り積もった諦観と、底知れぬ哀しみだけが、静かに宿っている。
——六条御息所。
伊勢の遥か彼方より、情念の影だけをこの世に送り込み、
己の魂の奥底の残り火で立っている女。
六条御息所は、熱に浮かされた紫の頬へ、冷たい指をそっと伸ばした。
指先は氷のように冷たく、触れ方はあまりにも優しいのです。
「……可愛い子。
なるほど、あの方が、大切にする理由……分かりますわ」
紫の上は、この女を生きて見たことも会ったこともない。
それでも魂のどこかで理解する。この人もまた——
ただひとりの男を、命を削って愛してしまった女なのだ と。
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