幻①
遠い伊勢の地——。
伊勢に下向していた六条御息所は、清浄な社に寄り添う寝所で、夢と現の狭間をゆらゆらと漂っていた。
ふいに目を覚ましたとき、自らの掌に、見覚えのない細い女の髪が一本、まるで小さな蛇のように絡みついていることに気が付きます。
それは漆黒で、絹糸のようにしなやか。
つい先ほど御息所自身が梳いた髪とは明らかに異なる。
六条御息所は、恐ろしいほど静かな無表情でつぶやいた。
「……また……わたくしの情が、夢の続きを見せたのか?」
その声には、不思議な喜びが微かに宿っていた。
伊勢に来てから、あれほど静まっていたはずの煩わしい夢。
あの方のそばにいる女——
かつて葵の上の魂を乱したように、また自分を遠ざける、清らかな存在。
その清澄さに向けられた揺れ動く憎悪が、形を変え、ふたたび怨念を生みつつあることに、御息所はまだ気がつかない。
それは、自らの中に残っていた『消えきらない情念の残り火』が、無自覚のまま光る君の愛の標的——
紫の上へ、細い指を伸ばし始めている証でもあった。
朝の光が満ちる二条院。
背後に立つ白い影。
風もないのに揺れた御簾。
床に点々と残された湿った足跡。
そのすべてが、まるで泡のように消え去ったあとも、紫の上の胸の奥には、氷の破片のように冷たい、得体の知れぬざわめきが残っておりました。
「姫様、本日は御身が優れぬご様子……
無理をなさらずお休みになられた方が……」
女房たちに促されるまま、紫の上は心身の疲れを覚えながら寝所へ下がる。
安らぎの眠りにつこうと目を閉じた、その時——
胸の奥で、説明のつかぬ異変が起こった。
……おかしい。寒気ではないのに……身体が……熱い……
衾の中で、熱がじわりと肌の奥から滲むように立ち上る。
それは高熱の悪寒とも、炎のような発熱とも違う。
胸の奥に、じり、と火種が灯るような妙な熱が据わり、
呼吸をするたび、覚えのない冷たく湿った香が鼻の奥に燻って残る。
……どうして。あの影を見てから……
身体が、自分のものではないみたい……
額に手を当てると、その一点からゆらりと熱が広がり、
まるで水面に落ちた小石が波紋をつくるように、身体の奥へ伝わっていく。
異変に気づいた女房が駆け寄り、紫の上の顔色を見て蒼白になり、息を呑み、心配そうに伝えます。
「姫様、これは……ただの風邪の熱ではございません」
「……熱……?」
紫の上は、自身に起きていることが信じられないように、ゆるやかに首をかしげる。
「いつもより少し……胸のあたりが……
苦しいような……息が詰まるような……」
女房は恐怖でさらに青ざめ、震える声で告げた。
「姫様、それは……物の怪の祟りに触れた方が、
初めに覚える胸の熱と申します……」
「祟り……?」
その言葉を聞いた紫の上の指先が、細かく止めどなく震えだします。
「私……なにか……御心を乱すような、いけないことを?」
「いいえ、姫様。決して。
ただ……姫様がこの上なく清らかでいらっしゃるからこそ、
俗世の情念を宿した物の怪が強く惹きつけられ、
近づきやすいのでございます」
そう言われても、己の無垢さが『呪いの源』であるという理不尽は理解できず、紫の上は胸の前で袖をぎゅっと握りしめることしかできません。
その時——。
寝所の御簾が、かすかに、悲鳴のような音を立てて鳴った。
風の気配ではない。誰かがそこに『立っている』。
冷たく、ひどく濃い、確かな気配。
紫の上は恐怖に身体を硬直させ、指一本動かせなかった。
……また……あの、黒い影……?
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