常夏④
朝まだき——
光る君が出仕していった後の、しんとした静けさに包まれた寝所。
紫の上は、昨夜の光る君の温もりを思い返し、胸の奥がぽうっと火が灯るように温かくなるのを感じていた。
おにいさまの逞しい腕の中……。
あれほど、この世のすべてから守られているような幸せがあるだろうか。
その甘美な余韻の中、女房に髪を梳かせていると、女房がふと不安げに眉を寄せた。
「姫様?いま、この辺り……
朝風が吹き込んだように、どこか寒うございませんか?」
「いいえ?寒くは——」
そう返しかけた紫の上の言葉が、喉の奥でふっと止まった。
首筋の産毛に——。
生温く、湿った、得体の知れない風がそっと触れたような感覚が走り、背筋を冷たい指が這い上がる。
朝の光が御簾を透かして射し込む、清らかな部屋の中だというのに、
その一瞬だけ、空気はひどく重く、梅雨の湿気のような冷ややかさに満ちた。
……何?いまの冷たい感触は——?
紫の上は、言い知れぬ不安に胸を締めつけられ、袖を胸前で重ねて肩をすぼめる。
その様子に気づいた女房が、不安げに紫の顔を覗き込んだ。
「姫様……御顔の色が、まるで雪のように……」
紫の上は安心させようと微笑もうとしたが、その笑みはひどく不自然に引き攣った。
大丈夫。ただの気のせい。
昨夜が、あまりに幸福すぎて……
この胸のざわつきは、その反動。心が、この幸福にまだ慣れていないだけ——。
必死にそう言い聞かせた、その時である。
風などないはずの背後の御簾が、
ふわりと、生きた人の手で開かれたかのように大きく揺れ、
紫の上は意図せぬ力に背を押されるように、思わず振り返る。
誰もいない。
——なのに。
御簾の向こう、庭の木々の陰に、淡く、白く、朝霧のような『影』が一瞬だけ立っていたように見えた。
人の形のような、輪郭が定まらない、恐ろしく曖昧な幻影。
「……え……?」
影が消えたその空間から、嗅いだことのない、ぞっとするほど冷たい香が漂ってくる。
花でも沈香でもない、湿った苔のような冷ややかさ。
紫の上の胸が、鼓動を忘れたかのように凍りつく。
「姫様?一体どうなさいました……?」
女房が異様な気配に耐えかね、慌てて駆け寄る。
紫の上は寒さか恐怖かわからぬ震える指で、御簾の向こうを指差した。
「今……誰か……白い、なにかが立っていたような……」
女房たちは顔を見合わせ、恐怖に駆られながらも周囲を確かめに走ります。
しかし——
人影など、どこにもない。
それどころか、清掃の行き届いた床の上に、庭から上がってきたかのような『濡れた跡』が、点々と続いているではないか。
まるで、とても細い女の足が、静かに、何かを探し、何かを確かめるように歩いた痕跡。
「こ、これは……まさか、物の怪の仕業……?」
女房が震える声で漏らすと、紫の上は強く首を振ろうとしたものの——
胸の奥では、重く冷たい不安が膨れあがるばかり。
私……『何か』に触れられた……?
その時である。
『……だれ……?だれなの……
光る君の腕の中で……甘える……この子は……』
ふいに、耳元で冷たい息がかすめ、誰かが囁いた——
その感触に、紫の上は全身の血が凍りついたように、その場で固まってしまった。
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