常夏①
翌日。
光る君が出仕の支度を整えようと、鏡台の前で衣の襟元を正していると、紫の上はどこか張り詰めた気配を纏ったまま、膝立ちでそっと近づいてきた。
いつもならば、清らかな微笑みで
『どうぞ、お気をつけていってらっしゃいませ』
と、控えめに送り出すだけなのに——
今日は落ち着かず、心ここにあらぬ様子である。
その細やかな変化を見逃すはずもなく、光る君は静かに問いかけた。
「紫?どうしたの……何か心配そうだけれど」
紫の上は、口を開きかけて一度閉じる。
けれど次の瞬間、清水に飛び込むような覚悟を決め、光る君の指先を長い袖越しにそっとつまんだ。
「おにいさまは、どちらの御所へお出かけになるの?」
「宮中へ。このところ政に関わる急ぎの文が、
山ほど溜まっているからね」
その答えを聞くと、紫の上の長い睫毛がふるりと震える。
伏せた瞳のまま、さらに細い声で続けた。
「宮中には……姫君方が、数多くいらっしゃるの……?」
光る君は眉をひそめ、問いの意図をつかめず瞬きをする。
すると紫の上は、袖をつまんだ指にぎゅっと力を込め、恥じらいと不安を混ぜた声で言う。
「昨日……あのように他の殿方から恋文を頂戴してしまって……
少し、怖くなってしまったの」
——その一言で、光る君の動きがぴたりと止まった。
紫の上は胸に手を当て、震える指をそっと押さえながら続ける。
「もし……私が、おにいさまのお傍にいながら、他の殿方から恋文を寄越されてしまうのなら……
おにいさまにも……同じように、いえ、それ以上に……
京中の姫君が想いを寄せたり……」
言いながら、自分でも羞恥に耐えかねるのだろう。
声は震え、しかし嘘偽りのない切実な想いが、必死に光る君へ届こうとしている。
「……おにいさまを、またどこかの見知らぬ姫に、取られてしまうのでは……と。
そんなことばかり、夜通し考えてしまって……」
その瞬間、光る君は激しい衝撃と共に悟るのです。
——これが、紫の上の、生まれて初めての『嫉妬』に似た感情なのだと。
時を遡る以前の紫の上は、どれほど苦しい状況であっても嫉妬を見せず、上手く隠し通し、ただ静かに耐え続けた。
その忍耐こそが、彼女の心をすり減らした一因でもあった。
けれど、今、目の前にいる紫の上はどうだろう。
身を焦がすような不安を、震える声で、必死に、いじらしい様子でしがみつきながらも正直に伝えてくれている。
光る君は、細かく震えるその指を見つめながら、ゆっくりとその儚い手を包み込み、重く、真摯な声で告げる。
「……紫。俺が他の女へ目を向けることは、決してないよ」
「でも、もしもと思うと、不安で……胸が張り裂けそうなの」
「そうか。では今日からは、宮中からも文を送ろう。
愛しいあなたの返事を、首を長くして待つとするよ」
「……はい。必ず……すぐにお返事を書きます」
紫の上は、溢れる感情を必死に押しとどめるように唇を噛み、
涙を堪えるように瞳を伏せると、光る君は、その愛おしい、
小さく震える身体を、自らの強い腕で、深く抱き寄せた。
……こんなにも——。
俺のたった一挙手一投足に、泣きそうな顔をして、こんなふうに切実に頼られて。
胸の奥に、乾ききった大地へ恵みの雨が沁み入るように、
これまで言葉にできなかった『純粋な執着』に似た深い感情が、静かに、確かに灯り始めたのです。
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