玉鬘③
光る君が朝廷の官務を終え、夕闇が京を包みはじめる頃、
ふと足の向くままに頭中将の邸へ立ち寄った。
薄く香を焚きしめた座敷で、差し向かいに酒を酌み交わしていた折、頭中将が何気なく放った一言が、光る君の耳奥に鋭い棘のように引っかかる。
「そういえば——
二条の片隅に、たいそう評判の姫君がいると京で噂だぞ」
「……評判、だと?」
光る君は手にしていた杯を、音を立てぬよう畳へ置いた。
胸が一瞬、硬い岩のように強張り、酔いが一気に引いていくのが自分でもはっきりとわかる。
……紫を……誰かが垣間見たのか。どこの、何者が。
けれど、表立って動揺を見せるわけにはいかない。
湖面のように静かな表情を保ち、努めて涼やかに応じる。
「……ありもしない、取るに足らぬ巷談に過ぎぬだろう」
「いやいや、どうして。聞いたぞ。
ある若い公達が、居ても立ってもいられず、
恋文まで寄こしたらしいと」
その瞬間、光る君の袖の内側で指先がわずかに震えた。
そして頭中将は、それを見逃さなかった。見透かすような眼差しで。
夜更け——
光る君が紫の上の居館へ急ぎ戻ると、御簾の奥には、女房たちの不自然な沈黙と気まずい気配が、濃い靄のように漂っていた。
紫の上は机の前に座り、いつもの古歌集ではなく、手元の書物に視線を落としているふりをしていた。
透き通るような白い頬は、不安と恥じらいのせいか、かすかに朱を差している。
机の上には——
几帳面な筆で結ばれ、丁寧に包まれた一通の文。
光る君が声をかけるより早く、紫の上がはっと振り向いた。
その眼差しは、助けを求めるように、戸惑いを抱えたまま光る君を捉える。
「おにいさま……今宵、女房が御簾の際で受け取って……」
小さな両手に包み隠すように持つ文が、頭中将の言っていたあの無遠慮な恋文であることは、光る君には瞬時に察せられた。
紫の上は文を持っていながら、その紙片にさえ触れたくないのだろう。
震える指先が、その拒絶と怯えを雄弁に物語っていた。
……いや、それ以上に。
光る君自身が、他の男の差し出した文に、紫の上の清らかな指を触れさせたくない——その思いが胸奥で燃えていた。
光る君は胸の奥で沸き立つ熱を抑え込みながら、そっと文を手に取る。
紙には、いかにも若く、粋な男が焚いたような、熱を帯びた上品な香が強く焚きしめられ、目に入る筆跡は、世慣れた若い公達のものである。
文面は、優雅な言葉を選びながらも、紫の上の姿を思い描く情熱が透けて滲んでいた。
『雪を纏う椿のごとき、そのみごとなお姿を垣間見てより、
我が胸には消えることなき火が灯りました。
どうか一度、この焦がれる心を鎮めるためにも、
お返事を賜りたく——』
読み終えた瞬間、光る君の胸を鋭い痛みが貫いた。
これまでの人生で味わったことがないほどの、激しい嫉妬と独占欲。
紫の上に触れる心の影さえも、許せない——
そんな自分の内に潜む感情に、光る君は思わず息を呑んだ。
紫に……己以外の手が、すでに伸びはじめているというのか。
その予感めいた不安は現実となり、この日を境に、紫の上を求める類の恋文は、春の長雨のように、日ごと絶え間なく増えていくことになる。
『あの光る君が、誰の目にも触れさせぬよう大切に隠している姫君——』
その噂だけで、京に住まう若い公達の好奇心を煽るには充分だった。
まして、人の宝を奪うという邪な快楽を胸のどこかに秘めた男であればなおさらだ。
紫の上が心を砕いて書いた断りの文すら、その筆跡があまりにも美しく、たおやかな姿を容易に想像させてしまう。
文を交わすだけでさらに虜にさせてしまうほどで、やがて返事を書く気力も失せるほど文の数が増えれば、今度は季節の花、珍しい香、そして唐織の衣までもが、毎日のように届けられるようになった。
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