澪標④
「紫が待っていると思えば、足も早くなるものだよ」
そう優しく応えると、紫の上は朝顔が露に濡れて咲くようにぱっと微笑みます。
しかし照れが勝り、すぐにはらりと視線を畳へ落とした。
その俯いた横顔のあどけなさが、光る君の胸を深く揺さぶる。
……やはり……どうしようもなく、こんなにも……
この人の存在だけで、胸が切実なほどに満たされてゆく……。
忘れられぬ恋。
そして、そして自らも忘れることを拒んだ恋。
それは彼女の一挙一動を、いっそう魅力的に、そして脆く見せた。
その夜。
月光が廂から淡く差し込み、物事の輪郭をぼかし始めた頃、
光る君が書物を静かに閉じると、紫の上は、長い決心を胸に抱いた旅人のように、ゆっくりと近寄ってきた。
重ねた小袖の裾を、小さな指でぎゅっと握りしめ、
上目遣いに、いまにも消え入りそうな声で尋ねる。
「……おにいさま……あの……その……今日は……」
「ん?どうした、紫」
光る君が壊れ物を扱うように優しく問い返すと、
紫の上は顔を茜色に染め上げながら、言葉を振り絞った。
「……今宵は……
一つ寝所で……お休みになりたいの……」
その告白は、あまりにも純粋で、あまりにもまっすぐな魂の願いであった。
だからこそ光る君は、胸の奥が愛しさで締め付けられるような激しい衝動に襲われる。
けれど同時に、彼の心には、鉄の響きをもつ確固たる信念があった。
——あの悲劇的な未来の原因。
——紫の上を蝕んだ真の災厄。
それがどこに潜み、どこから忍び寄るのかを突き止められない限り、まだ、この清純な娘の深い領域には踏み込んではならない。
その禁を、自らに強く、深く課していたのだ。
紫の上は、あまりに若く、穢れを知らない。
焦燥に駆られて傷つけてはならない。
あの胸を焼くような悲しい未来を、この手で二度と繰り返さないために。
光る君は、静かに手を伸ばし、彼女の柔らかな頬にそっと触れて微笑んだ。
すると紫の上は、その指を、溺れる者が藁を掴むように、小さな手でぎゅっと、握り返します。
「……ああ、一緒に寝よう。だが、紫。
今宵は——ただ抱きしめて眠るだけだ」
「……はい。それで十分……」
震える声の奥に、安堵と期待が淡く混じっている。
静かに寝所へ移り、灯を落とすと、闇が二人をやわらかにむ。
光る君は、その小さな姿に胸を打たれながら、そっと背に腕を回し、細い肩を自らの胸へ引き寄せた。
紫の上は、驚いたようにかすかに息を飲んだが、すぐにその緊張は解け、まるで探し求めていた場所に辿り着いたかのように、目を閉じて、光る君の胸板にそっと頬を寄せてくるではありませんか。
「あったかい……」
その、偽りのない、素直な言葉が、光る君の心の奥深くを、一瞬にして溶かしてゆく。
鼻先をくすぐる朝露のような髪の香。
胸もとに伝わる、小さく規則正しい息づかい。
触れた肌の熱から伝わる、喜びで早まる鼓動。
光る君は、この世で最も貴い宝物を守るように。
決して傷つけまい、壊さないようにと、ただ優しく、強く抱きしめながら、その耳もとに囁く。
「紫……この腕の中で安らかに眠るあなたを見るのが、
こんなにも幸せだとは思わなかった」
「……わたしも。おにいさまのそばがいい。
今も、昔も……ずっと……ずっと、このまま……」
羞恥と安堵と、芽吹いた恋の確信に震えながら、
紫の上は光る君の胸に身を委ね、そのまま静かに瞼を閉じ、静かに眠りにつくのであった。
光る君は、自らに課した禁を貫き——
ただ、このうえなく清らかな愛おしさだけを胸に、抱きしめるだけ。
紫の上は、燃えるように自覚した恋心を胸に抱えながら——
この腕の中で、人生で初めての揺るぎない安らぎを知る。
その夜。
宵闇が曙光に変わるまでのわずかな時間のあいだに、
二人の未来は、誰も知らぬところで、確かに大きく動き始めていたのです。
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