澪標③
東の空が白み始めた頃。
光る君が目を開けると、紫の上が小さく震えているのに気づき、体を起こし声を掛けます。
「紫?どうした」
「実は、その。膝が……もう、ぜんぜん動かなくて」
「まさか、一晩中ずっと?」
紫の上は、ふにゃりとした困った顔で微笑むと、恥ずかしそうに目を伏せます。
「だって、おにいさまが泣いたら……
慰めないと……と思っていたら、
気がついたら……夜が明けてしまって」
光る君は思わず息を呑み、そしてふっと笑みを漏らす。
だがその笑みの裏で——胸の奥に熱い痛みが広がっていた。
こんなにもいじらしく、こんなにも愛おしい人を、どうして愛さずにいられようか。
胸が潰れるほどの幸福と切なさが、一度に押し寄せてくる。
光る君はそっと紫を抱き上げ、痺れた足を労わるように寝台へ横たえる。
「……紫。ありがとう。
あなたのその言葉に……俺は救われている」
「わたしこそ……おにいさまのお側にいられることが、
一番の幸せだから」
紫の上は、夜明けの柔らかな光を浴び、静かに微笑んだ。
朝日が差し込む中、二人はようやく、葵の上の死以来、
初めて笑い合えたのです。
六条御息所との因縁は断たれ、失われていた未来が少しだけ明るく開ける気配がした。
光る君は紫の手を包み込み、ゆっくりと、しかし揺るぎない響きで言葉を落とす。
葵の上の四十九日の法要が済んだ、物哀しい夕暮れの空気の中。
あの朝——
朝霧のように淡い光の中でともに笑い合った時から、紫の上の胸の奥深くに、静かに、しかし消えることのない灯がともり始めていた。
その灯りは、長く自らに課していた、おにいさまへのこの恋心は、決して本当の情になってはいけない。
という、抑圧とも誓いともつかぬ戒めを、どこか遠い彼方へ押し流してしまったのだ。
胸がきゅう、と鳴る。
締めつけられ、息がときおり早鐘のように乱れる。
光る君の広袖に触れそうになるたび、襟元から首筋へとかけて、血潮がじんわりと上るのが分かる。
……この痛みを、忘れることなど、やっぱりできない……
紫の上は、この自覚してしまった想いの深さに、ただ戸惑うばかりであった。
幾度、水の泡のように打ち消そうとしても、気づけば胸の内を温め、同時に締めつけてしまう。
それは初めてではないのに、どこか胎内の記憶のように懐かしく、逃れることのできぬ感情。
古い歌集に恋の詩を見つければ、もしこの情熱をそのまま、あの方へ贈ったなら——
どんな面持ちをされるだろう、と胸が疼く。
艶やかな恋の絵巻物を開けば、そこに描かれた悩める姫に、
いつの間にか己を重ねてしまう。
そんな日々が続くのだった。
ある夜更け。
『今宵はお渡りになります』と女房から告げられた瞬間、
紫の上は、胸の奥がそわりと浮き立つのを押さえらません。
いつもより丁寧に、繊細な沈香を衣の袖に薄く焚きしめる。
鏡台に向かい、艶やかな黒髪を丹念に梳き整え、纏った小袿の襟元を、ほんの少しだけ、触れれば柔らかくしてしまうような、無防備な塩梅に整える。
長く仕える女房たちは、彼女の心の浮き立ちをすべて見透かしながら、気づかぬふりで微笑んでいます。
やがて、宵闇を切り裂くような気配とともに光る君が御簾の内へ入ると、紫の上は、まるで水辺に咲いた花が一斉に顔を向けるように、少し駆け足で近づき、おずおずと、その袖先を爪先でつまむようにして訴えるのです。
「……今日は、ずいぶん早くいらしてくださったのですね」
その声は、恋を自覚した娘特有の可憐な震えを含んでいた。
光る君はその響きを確かに聞き取り、胸の奥に氷が溶けるような温もりを覚えました。
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