澪標①
葵の上の四十九日を迎え、僧の読経がゆるやかに途切れたとき、光る君は深く息を吐いた。
外では、夕刻の紫を孕んだ風が吹き、喪の帳がようやく静かに下りて行く。
長かった闇が、わずかに薄まるような気配があった。
——夕顔。
——葵の上。
物の怪に出会い、魂を蝕まれる時。
あるいは、愛しい人の傍で、冷たい死の足音を感じる時。
その影にはいつも、六条御息所の激しい情念が、ひたひたと寄り添っていた。
最後に彼女に会ったのはいつのことだったか。
伊勢下向を前に、文一つ送らず、光る君は一方的に距離を置いていたのです。
このまま何も起きなければ、美しい思い出のまま、この恐ろしい愛の業を終えられるのではないだろうか。
そんな甘い願望が、一瞬だけ脳裏をかすめます。
「……もう、避けては通れぬか」
独り言のようにこぼれた声は、まるで胸の古傷をそっと撫でたかのようだった。
向かう先は、六条御息所の邸。
避け続けたその場所こそが、葵の死の遠因であると、光る君は誰よりも理解していたのです。
——ここで御息所を放置すれば。
——再び、あの未来を辿る。
——紫を守れなくなる。
だからこそ、喪明けの今日。
光る君は六条御息所のもとへ赴き、誠実で、そして決定的な別れを告げねばならなかった。
六条御息所は寝所の縁側で、風を受けています。
芥子の香が揺れ、その奥には、彼女自身が気づいていないほど深く沈んだ『傷んだ心』が、薄い膜を張って潜んでいるようだった。
再会の喜びと、そして得体の知れぬ恐れが複雑に交わり、
美しいのに儚い、夜明け前の影のような揺らぎがありました。
「……お久しゅうございます。
このような折に……わたくしなどのもとへ」
震える声。
それでも、光る君に会えたことへの『消え残る火』のような喜びだけは、どうしても隠しきれない。
その危うい揺らぎに気づいた瞬間、光る君は胸の奥が痛むほどの罪悪感に満たされた。
——放置すれば、六条御息所は再び壊れる。
——紫を傷つける未来が訪れる前に、この愛執を終わらせねばならない。
光る君は、六条御息所の前に静かに座し、深く頭を垂れた。
「御息所。あなたを苦しませた年月……
すべて、俺の罪です。心より詫びたい」
その言葉に、六条御息所の肩が、鋭い刃物で触れられたようにびくりと震えた。
胸の奥に張りつめられていた何かが、今にも音を立てて崩れ始める気配がしたのです——。
「……光る君……?」
翳りを帯びた声が、六条御息所の喉から零れた。
光る君は彼女の前に静かに膝をつき、深い覚悟を宿した眼差しで言葉を続けます。
「これ以上、あなたを縛らぬためにも……
今日、きちんと別れを告げに参りました」
「……わたくしが……何をしたか……
すべて、お気づきなのでございますか……?」
細く震える声。
六条御息所の胸の奥で、張り詰めていた糸が一つ一つほどけて行く気配があった。
光る君の言葉は、刃物より鋭く、清らかな水よりも静かに、
彼女の深い傷へすっと沈んで行く。
涙がこぼれ落ちる寸前の瞳で見つめられ、光る君は優しく、
しかし容赦なく首を振った。
「この京では、愛と情のゆえに弱った心が、
いつしか鬼に変じてしまうことも珍しくはありません。
あなたを責めるつもりはない。
そもそも、責める資格など、俺にはないのです」
一拍置いて、さらに静かに続ける。
「ただ……どうか。これ以上、誰も傷つかぬように。
そして何より、あなた自身が、闇に飲まれぬように……
心を鎮めてほしい」
その言葉は、慰めでありながら、彼女にとっては最終の『告別』であったのです。
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