薄雲②
六条御息所の意識は、畳の上へ転がるようにして自邸の寝所へと荒々しく引き戻された。
息は嵐のように乱れ、胸は苦しく上下し、それでも指先だけは、なお『首を締めていた』生々しい温度を失わない。
六条御息所は震える手を胸に抱き寄せ、まるで恐ろしいものを抱くように守りながら、かすかに呟いた。
「……違う。わたくしは、呪ってなど……断じていない……」
そう言いながら、その声が震えている理由が、六条御息所自身にももう分からなくなっていた。
産屋の薄闇の中、葵の上の唇からこぼれる声は、まるで断ち切られた糸が空へほどけて行くように、途切れ、細く、弱々しかった。
額には細かな汗が珠となって滲み、その息は浅く、苦しげに波打つたび、胸の奥で何かがきしむような痛みが走るのが、
傍らで見守る者にさえ伝わるほどでした。
簀子縁を囲むように張り巡らされた篝火の赤い光は、風もないのにゆらゆらと歪んで揺れ、産屋を照らすはずの浄火が、
むしろ重く湿った布のように肌に貼りつく。
女房が、恐怖に声帯を凍らされたような声音で呟きました。
「……また……あの気配が……御帳台の奥から……あれが、こちらへ……近うございます……」
「くる……あの、すべてを呑む黒い影が……また……」
葵の上は、胎内で大きくうねる命の痛みに耐えながら、
震える両手で腹を庇い、熱病とも冷気ともつかぬ寒さに身をこわばらせ、枯れた花のようなかすれ声を漏らした。
そのとき——
産屋全体の床下から、ひたり、と底冷えの風が這い上がる。
御簾を押しのけるように、風ではなく『影そのもの』が、
ねっとりとした気配を纏いながら近づいてきました。
「葵!」
闇を裂いた光る君の声には、妻を守らねばならぬ焦燥と、
抗えぬ運命への恐れが滲んでいた。
葵の上はその声に気づくなり、涙をこぼし、震える指先を必死に闇の中の彼へ伸ばす。
「……殿……どうか……そばに……
あれが……また……わたくしの胸へ……重く……」
その小さな手を、光る君はしっかりと握りしめ、鋭い声で女房たちへ命じる。
「弓弦を鳴らせ!破魔の音を絶やすな!
篝火を強めよ!陰陽師を呼べ!」
しかし——
どれほど火を焚こうと、どれほど念誦の音を立てようと、
産屋の片隅には光を拒む薄闇が凝り固まり、風が逆巻くように渦を描き、まるで穴のように口を開けている。
光る君の腕に伝わる葵の上の胸は、何者かに押し潰されるように不自然に沈み込み、呼吸が断続的に途切れて行く。
女房が、恐怖に見開いた目のまま叫んだ。
「奥様の胸もとに……っ、だ、誰かが……馬乗りに……!
影が、乗っておいでです!!」
光る君には何も見えない。
ただ、葵の上の白い胸が、見えぬ重さで沈み、震え、
苦悶の声が喉奥から、むせぶようにこぼれるだけ。
「葵っ……!!耐えてくれ!」
そのとき——
腹を押さえた葵の上が、かすかに呻いた。
「……動く……殿……
命が……もう……わたくしから……出ようとして……」
その声音は、もう己の残った力をぎりぎりの綱で手繰り寄せているかのような細さ。
夜の闇の奥から、六条御息所の香りが、一段と濃く、甘く、
産屋を満たした。
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