薄雲①
御簾の向こう、夜の闇はさらに深く、濃く沈み、まるでこの世に、愛と哀しみの底を示すかのようでした。
「なぜ……取れないの……なぜ、この感触だけが——」
六条御息所の指先には、つい先ほどまで掴んでいた、
温かい柔肌の、ねっとりとした感触が、拭っても洗っても、まるで愛の残滓のようにべったりと貼りついて離れず消えないのです。
手を清める水は、まるで穢れを恐れるかのように、その指先を避けるように流れて行くばかりです。
そして、何度身を清め、幾度湯浴みを繰り返しても、長い黒髪を念入りに洗い、衣をすべて取り替えても——
その身の奥底から、白檀の薫物の香りが、じわり、じわりと湧き上がってくるのです。
あの、憎き葵の上の寝所を満たす、清らかで、それゆえに自らを苛み続ける『祈りの香り』。
「違う……わたくしは、呪ってなどいない……」
そう口にすると、言葉の重さが空気に沈む。
しかし胸の奥底では、——もうすぐ、光る君が、わたくしの懸想を鎮めんと訪ねてくる。
その確信めいた予感が、火種のように灯っていた。
不安と、嫌悪と、そして……
それでもこの御方を待つことのできる『歓喜』。
相反する三つの情が、固く結び目のように絡まり合い、
魂そのものを引き裂くように疼き続けるのです。
そのような胸の内を抱えたまま、今宵も褥に沈むと、たちまち意識が肉体を離れ、どう抗おうとも抗えぬ力で、どこか別の場所へと引き寄せられる。
もう、ここがどこなのか考える必要もなかった。
御殿の配置も、御帳台の影も、調度のすべての位置も、
まるで自らの家のように刻み込まれている。
そして、この部屋の奥で——
誰が、苦しみに顔を歪ませ、眠り伏しているのかも。
足音すら立てぬ、音のない歩み寄りで、六条御息所は眠っている葵の上へと近づきます。
その顔は、青白く、透けるほど儚く、しかし苦痛に歪み、
玉のような肌には冷や汗が薄膜のように滲む。
そして、何よりも目を引くのは——大きく膨らんだ腹。
この中に、あの方の愛しい御子が宿っている。
そう思うだけで、美しい黒髪が逆立つほど激しい憎悪が、
胸の奥底から沸々と湧き上がるではありませんか。
六条御息所は、その神々しいほどの腹を跨ぐように馬乗りとなり、汗に濡れる葵の上の首筋へ、己の細い指をそっと添わせました。
その指先に、ぞっとするほどの歓喜が走る。
渇望を満たさんとするように、細い指は徐々に力を込めていき、爪が柔らかな肌を破らんばかりに深く沈む。
首筋に汗が伝い、肌が『ギリ』ときしむ。
生を握りつぶす感触と、影を押しているような虚無が幾重にも重なり、この世とあの世の境が限りなく曖昧になって行く。
「どうして……光る君のすべてを、あなたばかりが……」
それは、確かに自分の唇が紡ぐ声のはずなのに、どこか遠く、肉体を離れた魂の囁きのようにも聞こえた。
触れているのは、たしかに温かく血の通う『生身』。
けれど同時に、掴もうとしても指先は風のようにすり抜ける。
生の肉なのか、夢の影なのか。
どちらとも知れぬ曖昧な境界に、御息所自身の意識が沈み込むのです。
その時——
理性のかすかな残り火が、微かに呟いた。
「……帰らなければ。このままでは、身体が朽ちてしまう。
そして……光る君をお待ちしなければ……」
その囁きが胸に触れた瞬間、視界は万華鏡を覗いたように激しく転覆する。
白檀の香りだけが、濃く、深く鼻腔に残ったまま——
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