賀茂④
この賀茂の祭の日を境として、葵の上はついに病の褥から立ち上がれぬ身となりました。
ただ、御殿の奥で日がな一日伏し、ひと息つくごとに命の灯が揺れ惑うばかり。
物の怪の仕業であることは、もはや宮中の誰もが察しておりました。
眠りから覚めた細い足首には、覚えのない紅い掌の痕が、
まるで嫉妬の烙印のように深く刻まれている。
またある夜には、長く冷たい髪の毛が、水気を帯びて指先に絡みつき、ほどこうとしてもほどけず、葵の上は泣き叫びながら目を覚ます。
さらには、激しい痛みに気絶するように眠りに落ち、
ふと意識を取り戻したその首筋には、薄く血をにじませる爪痕が幾筋も残されているのです。
物の怪の所業は、日を追うごとに露わに、そして息づかいすら感じられるほど、確実に近づいていました。
光る君もまた、有名な高僧を招き、加持祈祷にと心を尽くしますが、御仏の力すら、この執念の前では寄せつけられぬかのように、病は一向に治まる気配を見せません。
そんなある晩。
いつもの沈黙を破るように、寝静まっていた葵の上の頬を、
大粒の涙がぽとり、ぽとりと伝いました。
はっと気づいた光る君は、すぐにその身を抱き起こします。
「葵の上……大丈夫だ。ここにいる。落ち着きなさい」
優しく言い聞かせるように抱き寄せながら、彼の胸裏には、幼いころの紫の上の寝息がふと蘇る。
泣いて怯えるあの子の背をこうして撫でれば、安心したようにまどろんだ——
その記憶をたぐるように、光る君はただ温もりで葵の上を鎮めようとします。
しかし——
「……いいえ。大丈夫などではございません。
あまりにも、白檀の薫物や、祈祷の念仏が、
わたくしを苦しめるもので」
その声は、葵の上のものではなかったのです。
低く、艶やかで、冷たく芯を通した声音。
ここ数日、弱々しさばかりを漂わせていた葵の上とは比べものにならぬ、
絶対の高貴を纏った声。
そして、その眼差し。
月光をすべて集めたかのように冷ややかで、唇の端にはぞっとするほど恍惚とした笑みが浮かんでいる——
「おひさしうございますわね……光る君」
「……やはり、あなたなのですか」
背筋がぞくりと震え、光る君の心臓が跳ねる。
「ええ。いまのわたくしは……
あなたが焚かせる白檀の香が、嫌で、嫌でたまりませんの」
幾度となく、どうか違っていてほしい、と、心の底で祈ったことでしょうか。
どれほど他の悪しき魂であれと願ったことでしょう。
しかし、己の腕の中で、葵の上の清らかな身体を借りて語りかけるのは——
かつて激しく愛し合った、六条御息所にほかなりません。
己の軽率な情の持ちようが、あの才気と気品を備えた女性を、ここまで惨い姿に堕としてしまった。
光る君は、生まれて初めて、真の意味での『申しわけなさ』という感情を噛みしめます。
けれど、それでもなお——
どれほど深く愛し合った過去があろうとも、自分の心はもう、彼女から遠く離れてしまっている。
その事実が、今この瞬間ほど冷酷な輪郭で胸に迫ったことはありません。
時を遡り、運命を書き換えようとした自分自身の行いが、
結果としてこの高貴な女性を孤独へ追いやり、
正気を失わせる闇へ突き落としてしまったのだという、
逃れがたい罪の影が、重くのしかかるのです。
「……わたくしは、いつまでも……
再び会いにきてくださるのを、待っておりますわ……」
ねっとりと絡みつく愛執。
その声が、ふっ……と蝋燭が消えるように遠のく。
耳鳴りのような静寂が訪れ——
やがて光る君の耳に届くのは、外を吹きすぎる風の音と、草葉の擦れ合う乾いた気配だけ。
そこに残されたのは、青ざめた顔で意識を失った葵の上と、
愛する妻を苦しめる『愛の亡霊』を前に、ただ成す術もなく立ち尽くす光る君——
その懊悩の影のみでした。
ブックマーク、☆☆☆☆☆、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




