賀茂②
どんッ——!
六条御息所の御車が、凄まじい衝撃とともに葵の上の御車へ激突したのです。
牛が嘶き、柱がへし折れ、檜扇が床に転がります。
女房たちの悲鳴は、初夏の空に引き裂かれた絹のように広がったのです。
葵の上は、腹に宿した命を守ろうと、身を硬く縮めます。
その花のように美しい顔から、音もなく血の気が引きます。
「いや……いや……来ないで……」
震える声は、命の灯火が揺らぐかのよう。
その刹那、六条御息所の車の周囲だけ、陽光がすっと色を失います。
まるで空が彼女の影を恐れ、光を避けたかのように。
そこだけ——影が異様に濃い。
湿り気を帯びた墨のような黒さ。
影が、まるで生き物のように、ゆっくりと葵の上の御車へ伸びて行く。
そして、葵の上の御簾へ触れた瞬間。
ぞり……。
絹や木の擦れる音ではありません。
乾いた皮膚の上を、別の生き物の皮膚が這うような、ぞっとする音。
六条御息所の車の奥で、何かが。
いや——
『誰か』が。
「どけ」
と、湿り気を帯びた低い声で呟いた。
怒り、嫉妬、焦燥、愛執——それらが幾重にも重ね合わされ、凝固したような、重く、粘質な声。
「やめて……!!子を……この腹の子を殺さないで……!」
葵の上が叫びあげたその瞬間——
悲痛に満ちた葵の上の叫びが、祭の喧騒に紛れながらも、かえって鮮やかに空気を震わせました。
御車は激しく揺さぶられ、女房が一人、堪らず外へ転げ落ちました。
地面に落ちた女房の悲鳴が、祭の雅やかさを断ち切り、
その場にいた誰もが、ただ一つの確信を抱きます。
——その瞬間です。
六条御息所の御車の簾が、まるで内側から息を吸うように、一人でにふわりと持ち上がるような、異様な感覚が周囲を襲います。
誰かが御車の内部で立ち上がり、外界を睥睨しているかのように、異様な気配が濃密に車体へ貼り付くのです。
形はない。
それなのに、確かに『そこにいる』。
生温かい蜜のようにねっとりした圧力が、風も光も、人の情念すらも歪ませてゆく。
御簾の奥の葵の上の身体が、びくりと跳ね、指先は己の唐衣の袖を掴み、裂けるほどの力で握りしめる。
「光る君……どなたか……助けて……!」
日の光満ちる葵祭のただ中で、一台の牛車だけが深海のような闇へ沈んでゆく。
六条御息所の執念が、とうとう形を取り、愛執の闇が生命を得始めたのです。
葵の上は、ただ震え、声を押し殺すしかありません。
逃げ場もない密やかな箱の中で、物の怪の影は、静かに、確実に近づいていた。
六条御息所の御車が、じり……じり……となおも葵の上の御車へ迫り寄っていた、その刹那——
背後から、位の高い后や大臣家の娘たちの豪奢な御車の列が、まるで急流のように押し寄せてきたのです。
重い金具のきらめきとともに、その巨大な質量が六条御息所の御車の横腹へ力を込め、ぎり……ぎり……と確実に押しやりはじめました。
「六条御息所殿のお車が……っ、押されておるぞ!」
従者たちの声が怒号のように響き渡ります。
女の乗る牛車同士の競り合いは、命のやり取りにも等しく。
けれどそれは、牛の曳く力の勝負ではない。
格の力。
六条御息所は名声こそ高くとも、すでに『捨てられた愛妾』
光る君の正妻たる葵の上と、公の場で並び立つ資格を、決定的に失った女の御車は、容赦なく、人波の奥、日陰の場所へと押しやられて行くばかり。
押し返されるたびに、六条御息所の御車の簾の奥で、ひゅう……と風のような怨嗟が鳴る。
それは風ではない。
嫉妬と絶望が形を得た『呼吸』でした。
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