賀茂①
やがて賀茂祭の頃となり、葵の上は参列を余儀なくされる。
唐衣の重装束を整える侍女たちの指は、緊張のあまり硬くこわばっていた。
当の葵の上も、檜扇を持つ指先がかすかに震えている。
「……何事もなく、つつがなく済めばよいのですが……」
初夏の風に消え入りそうな、細い声。
やがて玉の緒を飾った牛車が邸を発つと、光る君は胸にひやりと痛みを覚えた。
あの得体の知れぬ冷気が、今日に限って『異様なほど静か』だったのだ。
葵祭の行列は、目に鮮やかな初夏の光の中を、ゆったりと進んで行く。
檜扇の彩り、牛車の荘厳な金具、雅楽の調べ。すべてが風流な眺めである。
沿道の人々は、晴れの儀を心待ちにし、和やかなざわめきが道を満たしていた。
——だが、その賑わいの底で。
地を這うような、冷たい気配が息を潜めている。
払われたはずの草むらの影が、風もないのに、ひた……
と揺れたように見えた。
それは、まるで長い恨みを抱えた女の魂が、葵の上を追って、
祭りの華やぎの中へ入り込んで行くかのようであった。
牛車が整然と並ぶ御所の一角。
晴れの儀にふさわしく、どの御車も華やぎをまとっているはずなのに——
ひときわ美しさを放つ葵の上の御車だけが、奇妙な沈黙を孕んでいました。
御簾の奥で、葵の上は檜扇に顔を隠し、微かに震える声を漏らします。
「……また、あの香りがいたします……」
扇の隙間から、そっと車外へ視線を走らせた——
その刹那でございました。
ふ、と。
まるで『誰か』が、すぐ目の前を横切ったかのように。
初夏の光を受けていた空気が、不自然に、そして確かに歪んだのです。
形はない。
しかし『そこに立っている』と、直感が告げる。
その圧力は、祭のざわめきすら吸い込むような、不自然な静謐さを伴っていました。
御簾の奥では、御車を支える柱が、ギ……ギ……
と、細く、しかし確かな軋みを立てました。
それは風の仕業ではありません。
硬い爪で木を押し開き、帳の内に侵入せんとする何者かの意志——
肉体を持たぬものの、恐ろしいまでの『意思』の音でした。
そして次の瞬間、帳が内側から、ばさり、と。
祭の風向きとは逆に、激しく吹き上げられたのです。
深く甘く、されど氷を含む冷たさを孕んだ香りが、乱れた帳の隙間から溢れた。
六条御息所の薫衣香——
愛執が、肉体を離れ、独り歩きを始めた匂い。
「六条御息所殿の御車が葵の上様のお車へ、近づいて参ります!」
外で列を整えていた女房たちの悲鳴に似た声が、ざわりと波紋を広げます。
見ると、六条御息所の御車が、人々の制止など意にも介さず、
じり……じり……と地を削るように葵の上の御車へ迫っているのです。
牛を引く者たちの焦りの声。
車輪の噛み合う軋み。
乾いた地面を擦る轟音は、怒りを噛みしめる歯ぎしりのように響きます。
「寄せるな!下がれ、ここは通さぬ!
六条御息所殿の車を押し返せ!!」
従者たちは必死に叫び、押し返そうとしますが、六条御息所の車は動かない。
むしろ、見えない力に押されるように、さらに葵の上へ近づいてくるのです。
御簾の奥から——
ぬっ……と。
闇をまとう腕の影が伸び上がるように見えた者もいました。
ひらひらと揺らめくその影は、人の腕の形をとりながら、液体のように形を歪めては戻す。
「ひぃ……っ!」
葵の上の女房たちは恐怖に膝をつきます。
次の瞬間、運命は避けようもなく訪れました。
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