初音③
紫の上は、この涙の理由を説明できません。
光る君を困らせるだけだとわかっている。
光る君は、何ひとつ責められるようなことはしていないと、
紫の上はすべて理性では理解しているのです。
その理性が、むしろ涙をいっそうこぼれさせてしまうのです。
こんな醜い姿を見せてしまうことが、たまらなく恥ずかしく、
さらに涙が止まらなくなってしまうのでした。
紫の上が感じている、この胸の奥の激しい痛みが、恋という名だということはとうに気がついております。
……でも、まだ大丈夫。
今なら、この想いを忘れられる。
なかったことにできる。
涙と一緒に流してしまえば、元の静かな日々に戻れる——
紫の上は、小さな決意を、震える胸に固く抱きしめます。
光る君が時を遡る前には決して見せなかった、堰を切ったような悲哀の涙。
その姿を目の当たりにして、光る君は初めて悟りました。
——紫の上の孤独死は、藤壺への執着だけが原因ではなかった。
——この幼い頃から抱かれていた、深く、痛ましいほどの愛を裏切った、その報いだったのだと。
胸の奥に、氷柱を突き立てられたような鋭い痛み。
紫の上の涙が、光る君の未来への覚悟を、静かに、確実に書き換えていく。
手を伸ばせば届く距離にいる藤壺の宮にも、今は心が揺れない。
あれほど禁忌に触れる快楽に溺れた朧月夜にさえ、会う気すら起きない。
紫の上の涙が、光る君のすべての情念を——
ただ一ヶ所へと縫い付けてしまったからです。
確かに未来は変わり始めている。
それでもなお、避けがたい影も、やはりこの先に潜んでいるのでした。
「御息所が……伊勢へ下向するのか」
光る君は、時を遡る前に経験した、あの痛烈な別離の記憶を思い返す。
避けられぬ伊勢下向の刻は、今回もまた静かに、しかし確かに近づいていた。
紫の上への澄みきった愛情と、六条御息所が纏う烈しい怨念のような情。
その二つが、光る君という存在を根元から裂くように引きちぎっていた。
伊勢下向が、この業を断ち切る救いとなるのか。
それとも、時を遡る前と同じ悲劇を、再び繰り返すだけなのか。
今生でこの因果がどう変じるのか、光る君には見通すことさえ難しい。
それよりも——
元旦の日以来、紫の上は光る君と顔を合わせるたび、
最初はいつも通り華やいだ表情を見せる。
だがその直後に、ふと淡い憂いの翳りが胸奥から立ち上り、
影となって落ちるのだ。
光る君は、その一瞬の曇りを見るたび胸を刺され、
気にかかってならない。
しかし皮肉にも、その儚げな翳りは、時を遡る前の紫の上の面影と重なって見え、いっそう彼女を美しく、そして危ういほどに引き立ててしまう。
光る君は、その変化に目を奪われずにはいられなかった。
そして——避けられぬ、もう一つの宿命が訪れるのです。
「北の方様に……やや子が?」
あの夜。
時を遡る前と同じように、葵の上は光る君の子を身籠ったのです。
しかし違う点がひとつだけある。
——あの夜の光る君は、葵の上の身体の向こう側に、愛しい紫の上を重ね、背徳的に身体を求めた夜だということ。
瞼の裏にも、脳裏にも、どこを切り取っても紫の上しかなかったという一点だけは、明確に違うのです。
その『魂の嘘』が、宿命という形をとって現れた事実に、
光る君は言葉を失う。
「そう。だからしばらくは……
ここへ戻れない日が続くかもしれない」
「おにいさま。わたしのことなど気にせず、
北の方様のおそばにいてね」
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