初音②
「元旦だというのに、おにいさまはいらっしゃらないの?」
「恐れながら……光る君は、本日は北の方様の御許に、
お泊まりでございます」
「北の方様……?」
その瞬間——
紫の上は初めて思い出しました。
自らの胸に深く根ざした光る君には、正妻たる奥方がいるという、避けがたい事実を。
それはまるで、真冬の冷水を頭から浴びせられたかのような衝撃でした。
胸の奥がきしりと凍りつく。
なぜ、今まで忘れていたのだろう。
時折、光る君が戻らぬ夜。
朝とは違う、高貴で冷たい香を纏って帰る狩衣。
すべて、目にしていたはずなのに——
紫の上の世界は、あまりにも光る君との日々が温かく、安寧に満ち、ふたりを脅かす存在など『いない』と、無邪気に信じていたのです。
己の愚かさへの羞恥と同時に、葵の上への説明しがたい感情が込み上げてきます。
左大臣のご息女である葵の上が、どれほどの身の上か。
幼いながら紫の上もよく理解していました。
——光る君が自分のもとで微笑んでいた間。
——自分の手を取り、髪を撫でてくれた間。
光る君が自分と共に、満ち足りた時間を過ごしている間、
北の方様はどのような思いで一人、御殿で過ごしていたのだろうか。
紫の上が今感じているこの胸の痛み以上の深く、耐え難い思いを、北の方様に強いてしまっているのではないだろうか。
思えば思うほど、紫の上の大きな瞳から、熱い涙が止めどなく溢れてきます。
いっそ……
このまま涙を流し続けて、目が潰れてしまえばいいのに。
そうすれば——
おにいさまに出会うことも、胸を痛めることもなかった。
見えなければ、感じなければ、
おにいさまが誰かと結婚していると気付くこともなかった。
すべては——
知らずにいれば済んだのに、見てしまった己の罪。
紫の上は小さな手で顔を覆い、声にならぬ嗚咽をこらえました。
その涙は、幼子にはあまりに重い、愛と嫉妬と贖罪の色を帯びていたのです。
どれほど恨みつらみを胸に積み上げ、己を憎らしいと責め立てても、紫の上の心に浮かぶのは、結局のところ光る君の——
あの優しく、愛しく、たまらなく温かな面影だけなのです。
この恋心こそが、いま自分を苦しめるすべての源だと、
痛いほどわかっているのに。
いっそ時が戻って、おにいさまと出会わなければ……
そう絶望の淵で思ってしまいながらも、やはり紫の上が思い返すのは、北山で出会ったあの日の、触れた手のひらの切実な温もり。
あの運命的な邂逅だけは、どうしても『なかったこと』にできない。
それが、この心の真実だったのです。
日が昇り、元旦の光が御殿を照らす頃、ようやく光る君が紫の上のもとを訪れます。
しかし紫の上は、約束の刻限になっても寝所から現れません。
恥と痛みを隠すように、布団に深く身を潜めているのです。
「紫。どうしたのかな?」
御簾の外から響くのは、いつもと変わらぬ優しい、慈愛のこもった声。
けれど、紫の上の胸を荒れ狂わせる嵐は、まだ一片たりとも鎮まってはおりませんでした。
一目会いたい。
けれど、北の方様への消えぬ罪悪感が激しくせめぎ合います。
「顔を見せてごらん」
優しくも退けられぬ強さで布団を取られた瞬間、光る君は初めて小さく丸まり、声もなく泣き崩れている紫の上の姿を目にするのでした。
「おねがい……見ないで……」
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