葵③
——葵の上。
光る君の君の正妻として誰もが認める高貴な姫。
しかし夫婦の間に流れる空気は、真冬の深夜の庭のように凍りつき、氷の壁が幾重にも張り巡らされていました。
望まぬ縁組みであった葵の上にとっては無理もなく、また光る君の心は——
安寧の地を紫の上に見いだしている。
夫婦として近付く理由も、肌を交わす契機も、長きにわたりひとつとしてありませんでした。
——けれど、その夜。
ほんの偶然が、張り詰めた均衡を破りました。
文の受け渡しのためか、何気ない挨拶の折か——
何も起こり得ぬはずの場面で、ふと、葵の上の冷え切った指先に、光る君の掌がフッと触れたのです。
その瞬間。
長く忘れていた、生身の温もりの記憶。
肌の上を確かに流れる、血潮の熱。
ジンと二人の肌を伝ったわずかな体温が、氷の壁にピシッとひびを走らせ、音もなく、しかし決定的に、均衡を溶かしました。
触れた指先から、葵の上の白い頬にわずかな朱がスッと射すのを、光る君は見逃しませんでした。
そして、自身の胸にも、否応なく熱が宿るのを感じてしまう。
「……はぁ……」
光る君の唇から漏れたのは、後悔とも言い訳ともつかぬ、熱を孕んだ吐息。
その声を聞いた葵の上は、長い沈黙の末に、微かに睫毛を震わせ、唇を噛むようにして言いました。
「……わたくしは、六条御息所や……
二条の辺りの方々ではございませんのに……」
その声音は冷ややかでありながら、どこか震えており——
初めて、氷の奥に隠された女の情念の色が、淡く、
花灯りのように覗いたのでした。
氷のように冷たく、拒むようなその声が、なおさら光る君の飢えた胸を鋭く衝きました。
ここは左大臣邸。
すべてが格式と儀礼に縛られた正妻の御殿。
触れてはならぬ。触れぬ理由もない。
——その理性は、一度触れた『皮膚の熱』ひとつで、
彼の長きにわたり張り詰めていた禁忌の糸を、チリッと瞬時に焼き切ってしまったのです。
もう止めることなどできません。
薄絹越しに抱き寄せたのは、疑いようもない、生きた女性の体温。
高貴な香の底に潜む、微かな汗の匂い。
そして、ふと触れてしまった、霜のように冷たい葵の上の唇。
その刹那、光る君は遥か昔の、遠い記憶を、業火のように呼び起こしてしまうのです。
——紫。
「……っ……は……」
微かな、息をのむ音。
それは拒絶に喘ぐ葵の上のものか、あるいは自らの堪えきれぬ熱情が変じた吐息か。
区別すら曖昧になるほど、胸の奥の渇きが一挙に溢れ出す。
愛しい紫——
この世で最も美しい、あの『紫』。
北山から戻った紫の上の幼い姿。
そのあまりの無垢さゆえ、抱き寄せるだけの日々。
——最後に、紫の上をひとりの女として腕に抱きしめたのは、いつのことだったろう。
紫の上は、光る君のそばで、どれほどまでに愛しげに、
か細い声を震わせてくれていただろう。
潤む瞳、小さく開く唇。小さく震えたあの肩。
肌に触れれば、雪のように白く、熱を帯びては瞬く間に朱に染まる頬。
恥じらいに揺れる睫毛。甘い吐息。
細い腰を抱けば、必ず光る君の指にしがみつくように震えてくれた。
思い出せば思い出すほど、胸と腰に灼けるような熱が、グツグツと沸き立つように走るばかり。
光る君は、紫の上を腕に抱いた日の記憶を、まるで昨日触れていたかのように鮮やかに思い返し——
その禁断の面影を、今、腕の中の正妻・葵の上に深く濃く重ねてしまうのです。
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