葵②
「見捨てないよ。決して。あなたを捨てられるはずがない」
その確かな声を聞いた瞬間、姫はかすかな安堵と信頼をもって、光る君の胸に身を委ねました。
その小さな重みが、まるで過去の罪を洗い流すかのように、
光る君の心へ深く沈み込んでいきます。
……この子を、失ってはならない。今度こそ。
庵を出る頃には、姫は激しく泣き疲れ、ぽつりと眠りに落ちていました。
小さな身体の温もりと、梅の香のする髪の柔らかな感触だけが、光る君の決意を鋼のように固めてゆきます。
紫を、二度と手放すものか。
あの最期の夜の涙を、二度と見たくない。
細い声で『孤独でした』と告げさせるような生を、もう歩ませてはならない。
東の空に日の光が差し込んだ瞬間、光る君は覚悟を宿した瞳で従者へ命じました。
「——姫を、車へ。急ぎ、京へ戻る」
迷いは塵ひとつ残っておりませんでした。
この場で、運命は確かに書き換えられたのです。
露の命のように小さく可憐に眠る幼い姫君。
己の衝動を抑えようと何度も理性を振り絞り、それでも結局は罪を重ねるようにして連れ出したこの小さな命を、光る君は静かに見つめておりました。
定められた運命を自らの手で捻じ曲げるというのは、これほどまでに重く、これほどまでに苦しいことなのかと、光る君は己の浅はかさと神の摂理の厳しさを噛みしめます。
それでも、今この腕にある確かな温もりが、罪とも贖いともつかぬ深い安堵を与えてくれるのでした。
朝の光の中、姫はそっと瞼を開きました。
「……おにいさま……?」
「目が覚めたかな、姫。これからは——紫と呼ぼうと思う」
「むらさき……?」
「そう。あなたが纏っている衣のように、美しく、気高い色。
これからは、その名を差し上げよう」
藤壺の宮の香を思わせる、あまりにも因縁深い色。
新しい名を与えるべきかと何度も思案したものの、長い年月、魂の奥で呼び続け、愛し続けたその名を手放すことが、
光る君にはどうしてもできなかったのです。
それは、孤独の中で逝ってしまった時を遡る前の彼女の存在を、
消してしまうように思えたから。
愛しさと悔恨と、戒めをひとつに結ぶように——
今度こそ、その魂を幸せに導くと誓う不退転の覚悟を込めて、
光る君はその名を与えたのでした。
紫の上が幼き姿で光る君の御許に還って来て以来、光る君の目に映る景色は、まるで別世界のように一変しました。
すべてが鮮やかに、澄み輝き、生の光を帯びている。
以前はどれほど名家の姫を侍らせようとも、胸の奥の虚ろさは埋まらなかったというのに——
今、幼い紫の上の微笑みひとつで、胸の深い場所まで温かく満たされてゆくのです。
光る君は、可能な限り早く紫の上の許へ帰り、愛らしい姫と食事を共にし、物語を語り聞かせ、眠るまでの長い時間を寄り添って過ごしました。
ただ静かに眠る姿を見守るだけでも、飽きることなど微塵もありません。
かつてはその夜ごとに異なる女性の元へ通い、孤独を紛らわすように情を交わしていた光る君が、今や一人の幼子の傍らに心を置き、帰りを急ぐ日々。
以前の己であれば、到底考えられぬ献身でした。
新しい遊びを覚えるたび、小さな手で懸命に見せてくる姫。
日ごとに愛らしさを増し、美しく育ってゆくその姿を見ていると、どうして時を遡る前の自分は、この子を気にかけずにいられたのか、と不思議でならない。
けれど同時に、光る君の胸の底には、尚消えぬ不安が巣食っておりました。
——何があの子を、孤独の淵へ追い詰めたのか。
共に暮らし始めて数ヶ月、細心の注意を払い、一瞬たりとも見逃すまいと姫の表情を見守り続けても、その兆しはどこにも見当たらない。
曇りなき笑顔が翳り始めた『その瞬間』——
いまだ光る君には捉えられずにいるのです。
すべての時間を紫の上に捧げよう。
そう誓った矢先に、神の定めとしか思えぬ宿命が、静かに、
冷たく訪れました。
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