賢木④
あの晩の、胸を抉るような最期の言葉が、蘇りました。
『……わたくし……強かったでしょうか……?』
孤独のうちに朽ち果てた紫の上の面影と、
今、目の前で震えている幼い姫の姿が重なり、
光る君の魂が深く深く打たれました。
「殿……どうか、この子を……」
尼君は、風のように掠れた声で、かすかに光る君へ手を伸ばしました。
その眼差しは、この世への未練を静かに断ち切った覚悟と、
残してゆく幼子への深い慈愛とが、哀切の色を帯びて揺れておりました。
「この子を……どうか、ただお救いくださいまし……。
わたくしが世を去れば、この子はひとりでは……
生きてゆけませぬ……」
尼君の途切れがちなその声は、薄氷の上に落ちる雫のように、
静かに、けれど抗えぬ重みで光る君の心へ沁み入りました。
光る君は、一瞬、呼吸さえ忘れてしまうほどに言葉を失い、
一度は決心したはずが、逡巡するように言葉を詰まらせます。
——引き取れば、自らの手で再び、あの孤独へ引き戻してしまうのではないか。
——だが、引き取らねば、この子は世の無情に呑まれ、砕かれてしまう。
前の世で、紫の上が生涯抱え続けた深い孤独。
自分が他の女へ心を移すたび、静かに胸を痛め、それでも声には出せず、ただ一人で沈んでいった姿。
本当に、俺などに救えるのか……?
一度救えなかった者に、二度目の資格などあるのか……?
『かつての罪』と『今度こそ救う義務』が、光る君の胸で嵐のように渦巻き、思考を引き裂いてゆきます。
「……しばし、心安らかに……お休みあそばせ。
姫を、この光る君が……心してお預かりいたします」
深く頭を垂れて誓うと、尼君の目尻にほろりと涙が滲み、
薄く、安堵に満ちた笑みがこぼれました。
外では依然として風が荒れ、竹林が激しく揺れています。
しかし、寝所の灯火だけが小さな炎を揺らめかせ、
ほのかな光で紫の上の幼い横顔を照らし出していました。
光る君は、姫の寝具のそばに静かに座り、ただ見守ります。
微睡みについた姫の呼吸は浅く、時折、小さく震え、
不安に怯えるように眉を寄せました。
そのたび、光る君の胸は、きゅうと締めつけられるように痛みました。
——前の世のあなたは、こんなにも幼い頃から、すべてを一人で耐えていたのか。
顔を伏せ、地に額をすりつけそうになるほどの罪悪感が、
じわりと胸を満たしてゆく。
そして同時に、胸の底から込み上げてくる、どうしようもないほどの切実な愛しさ。
触れたい……。
その不安を、この手の温もりで消してやりたい……。
けれど触れてはならぬ。
姫……紫。
俺の愛は、この子にとって救いなのか。
それとも、新たな呪いなのか。
名を呼ぶだけで喉の奥が熱く痺れ、言葉にならない。
幼い寝顔に、亡くなる直前の、やつれた紫の上の面影が重なり、光る君の目尻に悔恨の涙が静かに滲んでゆきます。
やがて夜半を過ぎ、荒れ狂う風はようやく弱まりました。
東の空が淡く白みはじめ、紫の上の肩に落ちた灯火の光が、
新たな朝の気配を告げるように揺れています。
光る君は、その寝顔を、永遠に焼き付けるように見つめ、
ひとつ深く息を吸いました。
……もう、この子から離れることはできない。
兵部卿宮に引き取られた方が、世間的には穏やかで、幸せに育つのかもしれない。
きっと誰かが、この子を正しく愛し、孤独を与えず生涯大切にしてくれる未来もあるだろう。
それでも——。
自分のこの身勝手な愛と、深い贖罪の誓いだけが、
彼女を孤独死の運命から救い出せる唯一の道なのだと、
魂の奥で確信している。
だから俺は——
この子を、独りにはしない。
光る君は静かに立ち上がり、胸の奥に刻みつけるように、
姫の寝具をそっと整えました。
これが、運命を覆す——
最初の、そして最も重い一歩となるのです。
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