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「わたしが婚約者です」


「まあっ……あなた、それは本当なの?」



 広々とした屋敷の客間に、驚いたような女の声が響いた。

 その拍子に、女の手からは如何にも高級そうなカップがするりと落ちて、紅色の絨毯を濃い色に染め上げていく。傍にいた使用人は慌ててカップの片付けを始めたが、当の女はそんな使用人の顔を邪魔だと言わんばかりに叩き払い、勢いよく立ち上がった。


 テーブルを挟んでソファに座る――こちらも女――は、そんな彼女を前に(うやうや)しく会釈なぞしてみせた後、薬指に指輪が填まる右手をそっと自らの胸元に添え置いた。



「本当でございます。ご覧ください、この指輪は彼がくれたものなんですよ」

「本当? 本当なのね? 嘘じゃないわね? あなた、名前はなんというの?」

「はい、ティラと申します、ティラ・フーディエ。今はクランの仕事があって別行動をしていますが……わたしがリーヴェの婚約者ですわ、奥様。近いうちに彼を連れてきますね」



 女――ティラは、淑女よろしく微笑んで可愛らしく小首を傾かせた。



 * * *



 北の大陸と帝国とを隔てる街――アインガングにある屋敷を後にしたティラは、そのまま街を出て近くの森へと足を向けた。ほとんど道とも呼べそうにない獣道をしばらく進んだ先には、ウロボロスが仮の野営地とする一角があった。いくつも並ぶテントを見て、ティラの顔はふっと和らぐ。


 野営地の中央に集まって食事の支度をする面々を一瞥してからひと際大きなテントに入っていくと、その先には寝台に腰掛けるマックがいた。マックはティラが戻ったことに気付くなり、その顔に薄笑みを滲ませる。



「おう、ティラ。どうだった?」

「間違いないわ、辺りに出回ってる捜し人の話はあのリーヴェのことね。コルネリア夫人の髪色を見てすぐわかったわよ、リーヴェと同じ色をしてたもの。まあ……リーヴェっていう名前の無能って時点で、ハズレじゃないとは思ってたけどね。一緒にいた頃の話をしてあげたらそれはそれは喜ばれたわ」

「ほう」

「この指輪だってあなたがくれたものなのに、簡単に信じるものねぇ。それだけ余裕がないってことなんでしょうけど」



 ティラがつい先ほどまでいたのは、現在あちこちに出回っている捜し人の話を出した張本人、コルネリア・スコレットの住まう屋敷だった。


 ティラは右手の薬指に填める指輪をマックに見せつけると、自分をリーヴェの婚約者と信じて疑わないコルネリアの様子を思い出して愉快そうに笑う。


 スコレット家は帝国に仕える家のひとつで、家主のオリバー・スコレット――つまりリーヴェの実父は帝国騎士団の副団長を務めている。帝国の事情にそこまで詳しくなくとも、大体の事情はマックにもティラにも見えていた。



「フン、騎士団の男に無能が産まれたとありゃ、面目丸潰れだからな。現在副団長なんだ、当時から出世は見えてたんだろうさ。それで無能が邪魔になって捨てた、ってところか」



 当時は現在の皇帝が即位する前だったこともあり、無能が産まれたとて帝国領を追放されることはなかったはずだ。だが、騎士団に所属するゆくゆくは出世するだろう男の息子が無能などと、間違っても自慢できないし、裏で嘲笑されるのは目に見えていたに違いない。オリバー・スコレットがどう思っていたかは不明だが、わかるのはひとつ。無能として生まれた息子を、両親揃って手放したということだけ。


 それを、帝国の――正確にはエアガイツ研究所の研究のお陰で「無能に力がある」と知り、皇帝に賄賂として献上するために大慌てで探し始めたのだから馬鹿げた話だ。


 ティラはマックの隣に腰掛けると「ふふ」と小さく笑う。そんな彼女を後目に、マックはピクリと探るように片眉を上げた。



「どうした、随分と機嫌がよさそうじゃねえか」

「だって、リーヴェがあんなにいいところの出身だったなんて思わなかったもの。本物のリーヴェを連れてきてお金をもらうんでしょ?」

「ああ、あの無能野郎が金になるなら“無能”から“金ヅル”に格上げしてやってもいい。だが、当然それで終わるとは思ってねえだろ? 俺様は生き別れの母子に感動の対面をさせて満足するようなお人好しじゃねえからな」

「ええ、もちろんわかってるわよ」



 マックたちウロボロスがコルネリアの捜し人の話を耳にしたのは、本当にただの偶然だった。


 無能狩りが行われたポルト・ラメールの街に立ち寄った際に「コルネリア様の捜し人じゃないか」と街中がざわめいていたのだ。ざわめきの渦中にあった者たちは既に街にいなかったが、街人たちに詳しい話を聞いてすぐにわかった。


 帝国貴族が探しているリーヴェという名の無能は、あのリーヴェのことではないか、と。



「コルネリアから金をせしめたら、次は帝国だ。コルネリアじゃなく、俺たちがあの無能野郎を皇帝に売り払うぞ」

「あなたって本当に悪い人ね。わたしはあなたのそんなところが好きなんだけど」



 隣に座るマックの肩にティラがトン、と頭を預けて寄りかかる。彼女のその口元には笑みが刻まれていた。ひどく歪んだ笑みが。



「(邪魔者は一人()()()()()()()()()()し、ヘクセとロンプなんてマックは相手にもしてない。残るはアフティとかいうあの女だけど……まあ、相手にならないでしょ。隙を見てマックが皇帝を打ち負かしてしまえば、帝国の皇帝は新しくマックになる……今のうちに必死に無能を集めればいいわ、それらは全てマックのものになるんだから)」



 リーヴェを皇帝に売るのは、先々のことも考えて、だ。いくら皇帝と言えど、賄賂をもらえば多少は警戒も緩む。天才(ゲニー)であるマックなら、わずかな隙さえ見つければ皇帝を倒すことだって不可能ではない。


 これからのことを思うと、ティラは笑いが止まらなかった。


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