008 『吾空』
(……いったい何だ?)
まだ寝床に就いたばかりのはずなのに、室内が妙に明るい。抜けきらぬ疲労に苛立ちを覚えながらも、少年は目を開けた。すると目の前には、大きな太陽 ―― ならぬ、満ち満ちた月が浮かんでいた。
(まだ夢の中か?)
少年は、身体を起こした。
そこは雲海の上の景色であった。
星々もすぐそばで微笑んでいた。
風は完全に凪いでいた。
少年は、自分がまだ寝ぼけているのだと思った。
手足は確認できたが、どうにも質量が感じられない。
雲のすき間から地上を見下ろす。
そこには、今なお少年が眠っているはずの寺院と周辺の村落が、遠くまで見えた。
◇
朝となり、少年はいつもどおり、他の沙弥たちと共に、武術の鍛錬をした。夢現の中、身の入らぬ型に教官からの喝が入った。
「おい、知空! 朝から気もそぞろに、いったい何を考えておるのだ? 今日のお前はどこかおかしいぞ」
教官を務める兄弟子の吾真が、少年を窘めた。
知空と呼ばれた少年は、素直に昨晩の夢の話を兄弟子に始めた。
「―― ふむ、するとお前は昨晩、自らの肉体を離れ、空の上からこの寺院を見たというのだな。それは鮮明なものだったのか?」
「はい、それは非常にはっきりとしたものでした。私の知るはずのない、はるか上空からの景色です。そういえば、宝殿の瓦の一部が外れ、屋根に穴の出来ている場所が御座いました。あれは早めに修理した方が良いかもしれません」
「何、それは一大事ではないか。詳しい位置は分かるか。今すぐ、ついて参れ!」
吾真は、知空を連れ、宝殿へと走った。
教練をそっちのけに、他の沙弥たちを置き去りにして。
◇
屋根の穴は、実際にあった。
二階の東側の角にあり、一条の光が差し込んでいた。
宝殿の東側には崖がそり立っており、外からは死角の位置にあった。
「お手柄だな、知空。これは危ういところであった」
褒められながらも、不思議な感覚に陥る知空。
そして、吾真よりも早く背後に忍びよる影に気づき、振り返った。
知空の反応に、階段から頭だけを出し、ふたりを覗き見しようとしていた方丈が、観念したように姿を現した。
「鋭い沙弥だな。たしか……知空であったか」
「おお、これは住持様。何ゆえ、かような場所に?」
吾真が、方丈(=住持)に質問した。
「なに、お前たちが急ぎ駆けているところを偶々(たまたま)見かけてな。後をついてみれば……うむ、まさか宝殿の屋根に穴が空いておったとは」
「こ、これは……ですね。―― 」
吾真が、事のいきさつを方丈に説明した。
「―― ほぉ、それは面白い。すると昨晩、知空が見た夢の景色が正夢であったというわけか……いや、この場合、正夢とは言わぬか」
「(そんなことよりも)住持様、あの杖はいったい、どういった謂れの物に御座いますか?」
穴から差し込む光が、照らし出す一本の杖。その杖に、運命的な何かを感じ取り、魅入られる知空。失礼を承知で、方丈に直接質問した。
「ふむ、どれどれ……」
吾真は内心、冷や汗をかいたが、方丈は気にも止めず、杖の立てられた場所まで向かい、手に取った。
「何の変哲もない、ただの杖だな……なぜ、このような物が宝物殿に……分からぬが、これが欲しいのか、知空とやら」
方丈の思わぬ言葉に目を見開く、知空と吾真。
「は、はいっ!」
知空の即答に、唖然とする吾真であった。
◇
教練に戻った知空と吾真。
知空は、目を輝かせながら、ゆっくりと杖の使い心地を確かめた。
見るからに年季の入った古びた杖を、周囲の沙弥たちは笑ったが、やがてすぐに黙らせることとなった。ひと振りごとに風を切る音が変わり始め、やがて皆を後退りさせた。
「まさか目覚めている今も……見えているのか、知空?」
「はい……」
「悪いが、その杖を私にも貸してはくれぬか?」
見る間に洗練されていく知空の動作に鳥肌が立ち、思わず杖の借り受けを要求する吾真。
受け取った杖は、吾真の予想に反し、異様に重たく、通常の三~四倍ほどの重量があった。知空を真似て、杖を旋廻させようとすると、案の定、その重さと遠心力に負け、すぐに手放すこととなった。
(重さにも驚いたが、特筆すべきはやはり見の能力か)
杖を拾い上げ、何事もなかったかのように、再び演舞の型を始めた知空の姿を見て、吾真は確信した。元々、才を感じさせる動きをしていた知空であった。しかし、この度の俯瞰の目の覚醒は、彼は一気に開花させることとなったようである。
(……今後は、私が彼に教えを乞う立場になりそうであるな)
吾真は、天才の覚醒の瞬間に立ち会えたことに歓喜し、天に感謝の意を示した。
―― 程なくして、知空は方丈より、吾空の名を賜ることとなった。
Google Geminiによるイメージ。
【知空と寺院】知空のモデルは、いわずもがな、孫悟空である。後に斉天大聖を名乗る石猿だが、岩(仙石)から天地の精気を受けて誕生したという設定は、ドワーフとも酷似するため、本作では人間として登場する(実際の出自は不明)。
寺院のモデルは、もちろん少林寺だ。沙弥は、仏門に入ったばかりの少年僧たちを言い、得度に至ると晴れて童僧となる。Geminiによる画像生成では、すでに皆が童僧の風格だが、実際にはもう少し幼い年齢であると推測される。教官である吾真は、武僧の立場にある。
住持と方丈。住持は正式な場における寺院の最高責任者の名称。方丈は親しみやすい呼び方として、弟子や身内が使う(方丈は住持の寝所としても使われる)言葉。吾真が、方丈を住持呼びしたのは、その距離感がまだ遠いことを意味する。
方丈は、杖の異様な重みの由来も実際には知っているが、ここでは敢えて「何の変哲もない」と答えている。




