85 ノアの結界2
そう問われてまず初めに思い浮かんだのは、息子のエリアス。大切に育ててきたけれど、なぜか愛することができない息子。
その理由も忘れているような気がするけれど、おそらくは妻に原因があるのだろうとアウリスは思った。
妻のオルガとは愛のない政略結婚だった。それが気に入らなかったのか、妻は息子を生んですぐに失踪してしまった。そしてあろうことか、帝国の皇太子妃になっていたのだ。
先日、オルガと再会した際に息子を引き取りたいと言われたが、息子を引き渡す気にはなれなかった。
愛していない息子なのに不思議だけれど、その理由も思い出せない。
「公爵家には息子のエリアスしかいない。後は、王宮に父と母、兄上がいるけれど……」
物足りなさを感じながらもそう返すと、オリヴェルは「しっかりと消えているみたいだな」と呟く。
この記憶の抜け落ちについて、オリヴェルは何か知っているようだ。
「オリヴェル、俺に何があったのか教えてくれないか」
「うん。俺もそれを説明しなければならないから、様子を見にきたんだ。記憶のないアウリスには酷な話だけれど、これから罰を受けなければならないから……」
全く記憶がないけれど、どうやら自分は大罪を犯したのだとアウリスは悟った。人の記憶を消せるような存在は精霊神しかいない。彼に関わる大罪を犯してしまったのだろう。
アウリスは寝具を握りしめながら、オリヴェルの次の言葉を待った。
「ノア様がアウリスの記憶を消してしまったから、説明されても実感が湧かないとは思うけれど……。アウリスには、大切にしていた子がいるんだ。元婚約者で今は義妹の、ライラちゃんって言うんだけど――」
(ライラ……)
心の中でその名を思い浮かべた瞬間、アウリスの心の中はライラとの思い出で溢れかえった。
初めて出会った時の、五歳の小さなライラ。
徐々に成長していき、アウリスを意識し始めるライラ。
結婚を目前にしていた頃のライラは、毒によってやせ細っていた。
精霊神に助けられてからは、容姿が別人に……。
それからライラは成長が止まってしまったけれど、それこそがやり直せると勘違いしてしまった要因でもある。
自分との関係をやり直すために、ライラは成長を止めてくれているのだと、病んでいた自分はそう思っていた。
今度こそ看病を完璧にやり遂げれば、ライラは許してくれると。
馬鹿げた妄想で、ライラにひどいことをしてしまった……。
それなのにライラは、アウリスの心を癒そうと様々な言葉をかけてくれていた。
『家族』と言われて、どれほど嬉しかったことか……。
それでも、ライラがいなくなるかもしれないという不安は消えず。
結局は、記憶の消去を選択してしまった。
あの時はライラのいない人生が辛くて仕方なかったけれど、客観的な情報として記憶が戻ってきたせいか、今は冷静に考えられそうだ。
「そのライラって子に、俺はひどいことをしてしまったんだね。罪は償うよ。俺の刑は決まったの?」
「ライラちゃんとノア様は、刑など必要なって言っていたんだけど。国王陛下としては、そうもいかないようなんだ」
「俺はそれだけのことをしたんだろう? おとなしく受け入れるよ」
死刑になったとしても受け入れる。そう思っていると、オリヴェルは眉間にシワを寄せて目を細めた。
「やけに素直だな……。もしかしてお前……、記憶が戻っているんじゃないのか?」
「俺がライラを忘れるはずないだろう」
元親友の鋭い指摘に、アウリスは思わず苦笑した。それを見たオリヴェルは、ため息をついて椅子の背もたれに寄りかかる。
「アウリスの執着も相当だな……」
「執着なんて言い方は気に入らないな。俺はライラを愛しているんだ」
「はいはい……」
「それより、俺の刑はなんなの?」
そう尋ねると「とにかく、説明する手間が省けたよ」とオリヴェルは話を進める。
「実はどういうわけか、ライラちゃんからの手紙が離宮に置いてあったんだ。それによると神殿の結界が消えてしまったらしくて、もしかしたら国の結界も消えているかもしれないって。それで調査に向かわせたらライラちゃんの懸念通り、結界が消えていた」
「……魔獣が入り込んでいるの?」
「多少ね。それよりも厄介なことに、帝国の魔獣部隊が進軍しているようなんだ。一年もノア様が暴れていたから、感づいたんだろうね。さすが帝国だよ」
そこまで聞いて状況を把握したアウリスは、寝具を剥いでベッドから立ち上がった。
三日も寝ていた割には、意外と身体が軽い。
「ならば、戦の準備をしなければね。俺が指揮を取れってことなんだろう?」
「まぁ……、そういうことになるね」
この国では戦場での士気をあげるために、王家の血を引いた者が必ず兵を率いる。ここ百年ほどは戦がなかったけれど、王家の血を引いている男性は有事に備えて兵法を学び剣術を極めてきた。
アウリスやオリヴェルも例外ではなく、幼い頃はよく一緒に剣術の稽古をした仲だ。
「父上も親馬鹿だったんだね。知らなかったよ」
国王は罪を犯した息子に対して、それでも『名誉ある死を』と指名してくれたのだろう。
その親心に感謝しながら、アウリスはすぐにでも出立の準備を整えるために、呼び鈴を鳴らした。





