80 ノアの力12
ノアが作ったこの空間は時間の感覚がなくなるだけではなく、空腹感なども感じなければ、身体も汚れない。おまけに食べ物も腐らない。まるで時間が止まっているような空間だった。
そんな場所でアウリスは、一日中つきっきりでライラの世話をした。
初めはイチゴジュースだけを飲ませ。食事ができるほどに回復してからは、果物や持ち込んだお菓子などをライラに食べさせる日々。
栄養がまったく足りていなかったけれど、不思議とライラの体調は少しづつ回復しているように思えた。
「ライラ、何かしてほしいことはない? ライラのためなら何でもしてあげるよ」
「……神話を、読んでくださいませ」
「いいよ、ライラは神話が大好きだもんね。いくらでも読んであげるよ」
神話を読む時の彼は、決まってベッドへ入り込んでライラを抱き寄せた。
まるで、幼い子に絵本を読み聞かせるように。
彼にとっては憎い存在であろうノアの神話を、優しい口調で嬉しそうに。
アウリスは決して、男女としての距離を詰めようとはしない。
ライラの世話をすることが、今の彼にとってはこの上ない幸福なのだろうと思えた。
このままアウリスに看病されて回復できれば、彼の心も癒えるかもしれない。
そう思ってライラはおとなしく彼に身を委ねていたけれど、ライラが回復していくとともにアウリスには変化が訪れた。
「あれほどライラが苦しんだ毒を、なぜ俺が自ら飲ませてしまったんだ! 辛かったよね? 本当にごめんよ!」
それまで完全に現実を忘れてライラの看病をしていた彼が、自らが犯してしまった罪を悔やむように。
「アウリス様、落ち着いてくださいませ……」
「俺のこと、嫌いになったよね? 俺はもう生きている価値のない人間だよ」
「アウリス様が看病してくださったおかげで、徐々に身体は回復しておりますわ……」
「こんな俺を許してくれるの? 大好きだよライラ。ライラが成人したら、すぐにでも式を挙げようね」
かと思えば、四年前に戻ってしまったような発言を交互に繰り返すようになってしまった。
このまま身体が元通りになっても、アウリスの心は癒えないのではないかと不安になってくる。
いつまでこうしていれば良いのか。
その答えが見つからないまま、ライラの身体は順調に回復していった。
ここは昼と夜の区別がないので、どれほどの日数が過ぎたのか見当もつかない。
神話の原本はすべてアウリスに読んでもらい終えたし、身体のほうも全快と言って良いほどすっきりとしている。
けれど、ライラは相変わらずベッドで寝ていた。
全快したと知ったアウリスがまた毒を飲ませないか心配だったのもあるけれど、彼にはまだ時間が必要だと思っていたからだ。
最近のアウリスは正常な心を保っていることが多いように思える。
ライラに謝罪をし尽くした彼は、苦悩するように物思いにふけっている場面をよく目にしていた。
そんなある日。ふと窓の外が目に入ったライラは、花びらのようなものが舞っているような気がして、上半身を起こした。
(……コスモス)
草地だった家の周りが、色とりどりのコスモス畑に変わっていたのだ。
その風景がまるで神殿の周りのように思えて、ライラは切なくなりながら胸を押さえる。
こんなことができるのはノアに決まっている。
きっとノアは、外で心配しているのだろう。
(ノア様に会いたい……)
その気持ちで心がいっぱいになったライラは、アウリスに視線を向けた。
彼はライラが起き上がったことにも気づかずに、ソファーに座ったまま頭を抱え込んでいる。
「アウリス様……」
「……どうしたのライラ。何か飲みたい? それとも神話を読もうか?」
罪悪感と戦っているような表情のアウリスは、それでもなんとか微笑みを浮かべる。
「お散歩がしたいですわ。歩けないので、抱えてくださいませ」
「……うん。たまには外へ出なければね」
この家に入った日以来、一度もライラを外へは出そうとしなかったアウリス。
けれど、いつまでもこうしてはいられないと、今の彼は理解できるようだ。
今なら、まともな話し合いができるかもしれない。
わずかな期待を抱きながら、ライラは彼に向けて両手を広げた。





