77 ノアの力9
「冷たくしてごめん! お願いだから俺の傍からいなくならないで!」
「お……お義兄様、痛いですわ。離してくださいませ……」
ライラがそう訴えると、アウリスは少しだけ力を緩めてくれた。けれど腰と肩をがっちりと押さえられていて、ライラの力では抜け出せそうにない。
「ライラは原本を全て読みたいんだろう? 俺なら何日だって付き合ってあげられるよ?」
「何日もこちらに滞在したままでは、皆様が心配してしまいますわ。それにお義兄様やわたくしも、お仕事が溜まってしまいますわよ」
現実を見てほしいと思いながら彼を見上げると、辛そうに顔を歪めながらも何とか微笑んでいるような彼と目が合う。
「やっとライラと二人だけの空間を手に入れたんだよ? もう外の世界なんて必要ないよ」
「何をおっしゃいますの……。お義兄様はいつも、王子としての責務を果たすことに誇りをもっていらっしゃいましたわ。公爵としても、領地を良くしようと頑張っておられましたのに……」
「ライラに幻滅されたくないから、演じていたにすぎないよ」
憂いに満ちた彼の表情は、色気のある顔立ちと相まってなおのこと疲弊しているように映る。
(アウリス様……)
ライラは幼い頃から、そんな彼に憧れていた。それが彼の性格だと思っていたのに。
『王子』も『公爵』もこれほど簡単に捨て去ろうとするほど、彼にとっては無価値なものだったのか。
「では、エリは……? ずっとこちらにいたら、エリアスに会えなくなってしまいますわよ」
ライラに依存せずともアウリスには、目に入れても痛くないほど可愛がっている息子がいるのだ。
どうかその存在を思い出してほしいと思いながら、ライラは彼の服にしがみつく。
「エリを可愛がれば、ライラが会いに来てくれると思ったから。けれど、もう必要ないよね。ライラはここにいるんだから」
息子に向けていたよりも優しい笑みを向けられて、ライラはアウリスとした約束を思い出した。
エリアスが生まれた頃の彼は、オルガが失踪した寂しさからなのかライラにやたらと執着していた。
なんとかエリアスに目を向けてほしいと思ったライラは、ライラと会う機会と引き換えにアウリスに育児の習得を求めたけれど――
(アウリス様は、愛情を持ってエリに接していたと思っていたのに……)
アウリスになついていたエリアスの姿を思い出すと、胸が苦しくなる。
エリアスはこの三年間、偽りの愛情を受けて育っていたというのか。
「ごめんなさい……。今までのお義兄様の姿は、わたくしの押し付けでしたのね……」
「謝らないで。俺が望んでしていたことなんだから」
「けれど……」
アウリスは、慰めるようにライラの頭を優しくなでる。
「なら、また『アウリス』って呼んでほしいな。『お義兄様』と呼ばれるたびに、壁を感じて辛かったんだ」
それも自分が望んだことだとライラは思い出した。
義兄として接したいと提案したのはアウリスだったし、気持ちを切り替えるには良いと思っていたけれど。
彼が壁を感じていたとは、思いも寄らなかった。
「今まで申し訳ありませんでしたわ。……アウリス様」
知らず知らずのうちに、自分の理想をアウリスに押し付けていたようだ。
謝罪を込めて久しぶりに名前で呼んでみると、彼は幸せそうに顔が緩む。
「うれしいよ。ずっとライラの可愛い声で呼ばれたかったんだ。ねぇ、もう一度呼んで」
「……アウリス様」
もう一度呼んでみると、彼は幸せを噛みしめるように目を閉じる。
「はぁ……。幸せすぎる」
名前を呼んだだけで、これほど喜ばれるとは。これまで、どれほどアウリスに負担をかけてしまっていたのだろうか。
「あの……、他にもわたくしが負担をかけていた部分がありましたら、おっしゃってくださいませ。アウリス様とは、これからも良い関係でありたいですもの」
思い返してみると、今まで『素のアウリス』を見ていなかったように思う。
婚約者として、王子として、義兄として、エリアスの父親として、公爵として。
その時々の彼の立場を意識して接してきたけれど、それが負担だったようだ。
素の彼を理解してわだかまりを解消できれば、外の世界へ戻る意欲を取り戻してくれるかもしれない。
ノアには申し訳ないけれど、今日はとことんアウリスに付き合おうとライラは決心した。
「ありがとうライラ。けれど、急ぐ必要はないよ。時間はたっぷりとあるんだ、ゆっくりと元の関係に修復していこう?」
けれど彼からは、ライラの考えとは少しずれた意見が返ってくる。
「元の関係……とは?」
「今度こそ、俺がライラを幸せにするから」





