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 慣れない刺繍と悪戦苦闘しているうちに、あっという間に一週間がすぎました。

 今日から私は侍女として復帰しています。右腕はときおりつりそうな感じがしたり、軽い痛みが走ったりしますが、気をつけていれば大きな問題はありません。


 お嬢様の部屋の片づけを終え、一階に下りると、護衛騎士のもの言いたげな視線を感じます。


「セレナさん、こっちこっち。今日はいい天気だから、外でお昼にしましょう」


 マーサさんの提案で、ランチを持って、中庭の四阿に落ちつきました。


「騎士の方々もセレナさんの心配をしているのよ」


 マーサさんも視線に気がついて、私を外に誘ってくれたのでしょう。


「自分たちがもっとしっかりしていればセレナさんが傷つくこともなかったのにと、悔しがっているのよ、きっと。自分たちの不甲斐なさを感じているの」

「そう、でしょうか」


 私はあの視線にもっと別の、私に対する非難のようなものを感じました。


「そうよ。そういう思いを抱かなければ騎士と言えないわ」


 それからマーサさんは騎士の旦那様への愛と尊敬を語られました。結婚して二十年以上経ってもマーサさんの愛は色あせることなく、出会った頃と変わらないときめきを旦那様に感じられているそうです。私もラウルとそういう素敵な夫婦になれるでしょうか。


「それにしても伯爵はアン様への愛が深くて細やかなのね」

「…………」


 マーサさんが急に悪魔のお嬢様への愛について語り始めてしまいました。


 悪魔とお嬢様がいかに理想的なカップルであるかを語るマーサさんをとめるすべが見つかりません。


 乙女は恋を語るのが使命なのだと、マーサさんは自分に課せられた使命を全うしているだけなのだと、そう自分に言い聞かせてマーサさんの話を聞き流していたのですが、聞き流せない事実が一つ紛れこんでいました。


 通信具の故障の原因です。

 あの日、記念式典に出なくてはならなかった悪魔はしばしのお嬢様との別れを惜しみ、私の目を盗んでお嬢様の通信具へキスを落としたそうです。そのときに「この通信具が自分専用だったら」と悪魔が願ってしまったことで、通信具の魔法が書き換えられ、お嬢様の通信具が一時的に悪魔専用になってしまっていたのだそうです。なんという悪魔の魔法力、そして独占欲でしょう。私はこのことを聞いて悪魔の執着に呆れましたが、マーサさんは悪魔の愛の深さを感じたのだそうです。同じものを見ているはずなのに、見る角度によって全然違うものに見えることもあるのですね。


「お二人はまるで絵本の中のお姫様と王子様みたいよね」

「……ええ」


 王子様は王子様でも、悪魔は魔界の王子様ですよ。


「とにかく私は伯爵とアン様の愛の軌跡を間近で見ることができて幸せだわ」

「……あの、そろそろ戻りますね」


 まだ話し足りなそうな顔をしているマーサさんと別れて、私は仕事に戻りました。




 お嬢様の衣装室の整理に熱中しすぎて、気がつくとお嬢様が学園から戻られる時間になっていました。久しぶりに動いて汗をかいたので、着替えようと部屋に戻ったところで通信具が揺れます。


「セレナ? どこ?」


 お嬢様です。慌てていらっしゃるのか少し早口になっています。


「自分の部屋ですが」

「じゃあ、すぐ来て」

「はい。すぐに向かいます」


 急いで着替えてお嬢様の部屋のドアを開けると、お嬢様が学園の制服を頭からすっぽりかぶってもがいていらっしゃいます。自力で制服を脱ごうとなさって、失敗したのでしょう。


「セレナ、助けて!!」

「大丈夫ですか?」


 あまりのかわいさに救出するのがもったいなく感じてしまったというのは内緒です。


「大丈夫じゃないわ。早く助けて」

「では一旦、動くのをやめて、かがんでくださいませ」


 動きをとめられたお嬢様の後ろに回って、制服のボタンに引っかかっている髪の毛を丁寧に外していると、無言の侵入者と目が合います。


「…………」

「…………」


 侵入者はもちろん悪魔です。魔法のリングを通じて、お嬢様の異常を察知したのでしょうが、こんなに簡単に転移してくるのも問題ですね。幸い制服のスカート丈が長い上、お嬢様が腰を落としていらっしゃるので肌は見えていませんが、もしもお嬢様が下着姿だったらどうするつもりなのでしょうか。

 悪魔には早急に魔法のリングを改良してもらわなければいけませんね。お嬢様の安全のために。 


「どうかしたのセレナ?」

「……いえ、髪の毛がボタンに引っかかっていまして、少々手こずっております」


 私が言い訳を口にしているうちに悪魔はいなくなりました。お嬢様に見つからないうちに消えてくれてよかったです。


 春らしい淡い黄色のワンピースドレスに着替えられたお嬢様に訊ねます。


「どうして急がれていたのですか?」

「そうよ、急がないと」


 急いでいたことを忘れられていたのですね、お嬢様。そういううっかりもお嬢様なら大変かわいらしいです。私がやってしまったら、悪魔から馬鹿を連呼されること間違いなしですが。


「髪も直してね」

「はい、お嬢様」


 ところで急いでいる理由は教えてくださらないのですか?


「ねえ。幻臭って知っている?」

「げんしゅう、でございますか?」


 話題が変わってしまいました。


「そこにないものの匂いを嗅いだような幻のことよ」

「まあ、知りませんでした。お嬢様は難しい言葉をご存知なのですね」


 学園で習われたのでしょうか。


「いるはずがないのに、いつもレオ様の匂いがする気がするって言ったでしょ」

「……はあ」

「それを伝えたらね、レオ様がそれは幻臭って言うのだよって教えてくださったの。きっと私のことをアニーがいつも思ってくれている証拠なのだろうねって。うふふっ」

「…………」

「今もね、レオ様の匂いがするの。いらっしゃらないのに。不思議でしょ?」

「……はい」


 不思議なのはお嬢様の鼻です。


「レオ様のいい匂い……」

「ところでお急ぎだったのでは?」


 お嬢様が悪魔愛を語り出しそうな気がしたので、話題を戻します。


「そうだったわ! セレナ、急いで! レオ様がね、今日は早く戻られるのですって。それでみんなでお茶でもしようって、さっき通信で言われたの」

「みんなでですか?」

「そう。セレナが元気になったお祝いですって」

「まあ」

「レオ様って本当におやさしいわよね」


 お嬢様からこの言葉を引き出すためだけにお茶会を計画したのでしょうか。そんなふうに勘ぐってしまう私はひねくれものですね。


「でき上がりました」

「ありがとう、セレナ」


 低い位置で結びなおして、黄色いリボンを結んだだけですが、お嬢様は気に入ってくださったようです。




 応接室ではすでに悪魔と兄様が待っていました。テーブルにはパウンドケーキとチョコレートが並んでいます。


「アニー、会いたかったよ」

「まあ、レオ様。私もですわ」


 長時間離れ離れになっていて、やっと再会したみたいな雰囲気出されていますけれど、せいぜい三十分ぶりですよ。まあ、キャサリン様の正体を知らないお嬢様にとっては朝ぶりかもしれませんけれど。


「早くアニーに学園を卒業してもらいたいな」

「まあ。この間入学したばかりですわ、レオ様」


 お嬢様が何のためらいもなく悪魔のとなりに座られてしまいます。最近の二人は距離が近すぎて、泣きたくなります。絶対に悪魔の赤面問題を解決してしまった兄様のせいですよ。


「アニー」


 悪魔が得意の甘い声を出しました。危険です、お嬢様。今すぐに離れてください。


「レオ様」


 お嬢様も甘やかな声を出されます。もう二人に私たち兄妹は見えていないのでしょうか。


「時間を進める魔法があったらいいのにと思わないかい?」

「え?」

「そうしたら時計の針を二年分進めて、今すぐアニーと結婚式を挙げられるのに」

「!!!」


 瞬間沸騰されたお嬢様の手を取って、左手の薬指に光るリングに悪魔がキスを落としてしまいました。


「兄様、すぐに戻りますので」


 お嬢様と悪魔のいちゃいちゃを見ていられなくて、部屋から逃げ出した私にお嬢様はお気づきにはなりません。


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