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 夕刻になっても目を覚まされないお嬢様を心配していると、戻ってきた悪魔がとめる間もなくお嬢様の額にキスを落としてしまいました。


「睡眠魔法をかけていたのだよ」


 兄様が小声で教えてくれましたが、魔法をとくのとキスは別問題です。


「かわいいじゃないか、唇にはまだキスできないのだから」


 全然かわいくなんてありませんよと、兄様を睨んでいると悪魔が私を見ます。


「アニーはもうすぐ起きる。その前に治癒してやるから、自分の部屋に戻れ」

「……はい」




 朝と同じように治癒を施され、私の右腕は熱を持って自己主張します。


「治療はいつまで必要なのですか?」

「傷が消えるまでだ。お前に傷が残ると、セドリックが気にする」


 悪魔の意外な言葉に、兄様が微笑みを濃くします。


「いつまでも包帯をしていると、アニーも気にする」


 兄様が新しい包帯を巻いてくれているのを見ながら悪魔が言います。


「きっとすぐよくなるよ」

「そういえばセレナ」


 兄様のやさしい声に続いた悪魔の声がいつもより低くて、嫌な予感がします。


「……はい」

「お前は馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、本当にどうしようもない馬鹿だな」

「はい?」


 急に何なのでしょう。馬鹿って言うほうが馬鹿だと、子供の頃に言われませんでしたか?


「アニーが魔力を嗅いでいるかもしれないとなぜ言った?」

 

 質問の意味がわかりません。私がわかるのは悪魔が今日もしっかりと盗聴していたということだけです。


「そう聞いていたからです」

「私たちがわざと言わなかったことを、なぜお前が言ったのかと訊いている」

「わざと伝えなかったのですか?」

「当たり前だろ。不確定なことを聞かされてアニーは戸惑っていただろう」

「でも、魔力を嗅げるなら、それをしっかりと把握していないと、お嬢様のその秘密を知ったものたちがお嬢様を狙うかもしれないではありませんか」


 どうして私が危惧していることが悪魔に伝わらないのでしょう。


「レジナルド、私には馬鹿の相手をしている暇などない。お前が馬鹿にもわかるように噛みくだいて説明してやれ」


 悪魔が転移で消えました。


「兄様、私は馬鹿なのですか?」

「馬鹿な子ほどかわいいと言うからね」


 兄様、それは全然フォローになっていません。


「かわいい子に特製のミルクティーでも淹れてあげようか?」


 兄様、それはとっても魅力的な提案です。


「お待たせ」


 兄様の淹れてくれるミルクティーはいつも何かスパイスが入っています。今日は何が入っているのでしょうか。


「おいしいー」


 舌にはピリッとささやかな刺激、でもじんわりとお腹があったまっていくのがわかります。


「ジンジャーですね」

「ああ。春といっても朝晩はまだまだ寒いし、セレナが何だか元気なく見えたから」


 兄様は鋭いです。


「夜中から起きていたので、ちょっと疲れているだけです」

「そうか。今日は早く寝るといい」


 でも兄様はその鋭さで私を追いつめることはしません。私が隠したいことを詮索することなく、見て見ぬふりをしてくれます。


「さあ、では話すことにしようか」

「何だか最近、こんなふうに兄様から説明を受けてばかりですね」

「そうだな。まあいいじゃないか。セレナもレオポルドの説明よりは俺のほうがいいだろ?」

「もちろんです」


 私の返事の勢いに、兄様が笑います。


「セレナは相変わらずだな」

「すみません」

「別にかまわないよ。セレナとレオポルドがじゃれ合うのを見るのは面白いからね」


 兄様、妹へ向ける笑顔に黒い成分は混ぜないでください。


「アン様が魔力を嗅げているとしても、それで使える魔法を予測できるとしても、そのことをレオポルドはアン様には言うつもりがない。ただ鼻がいい、勘が鋭いですませる予定だ」

「でも」

「アン様が魔力を嗅げる特殊能力をお持ちだったとしても、私たちが話さなければ外部に漏れることはない」

「でも、お嬢様が話されるかもしれません」


 実際、お嬢様が口にされたことで判明したのですから。


「アン様は今まで、レオポルドにすら匂いのことを話したことがなかった。それどころかひとりごとですら漏らさなかったらしい」


 盗聴していた悪魔も知らなかったということでしょうが、今まで言わなかったからといって、これからも言わないとは限りません。


「しかし今後はわからないではありませんか」

「レオポルドがアン様の能力について、伯爵と伯爵夫人に訊いてきた。二人はアン様がただたんに鼻がいいと思っていたそうだ。それでアン様が匂いのことを口にするたびに、他人の体臭を口にするのははしたないことだからやめなさいと窘めてきたらしい。それでアン様は匂いのことをこれまで口にしなかったのだ」

「でも私たちには」

「アン様が私たちを他人ではないと判断したのだろう」


 ぽあっと心があたたかくなります。


「とにかく落ちついたらアン様の能力については検証する。それからアン様が刺客を匂いで見つけることができるとしても、セドリック殿下はアン様にそのことを依頼するつもりはないそうだ」

「そうなのですね」

「ああ」


 少し安心したところにノックの音がしました。


「セレナ!!」


 私が返事をする前に勢いよく部屋に入ってきたお嬢様が動きをとめられました。私の前に座る兄様に気がつかれたのでしょう。


「お嬢様?」


 お顔が真っ赤ですが、息していらっしゃいますか?


「アン様。おかげんはいかがですか?」

「……もう、大丈夫、です。レジナルド様がいらっしゃるとは思わなかったので……大変失礼いたしました」


 兄様の問いかけでお嬢様が息を吹き返されました。その後ろから悪魔の登場です。しかも眉根に皺を寄せまくっています。


「レジナルド。お前のせいでアニーが驚いてしまったではないか、謝れ」


 お嬢様の頭を撫でながら悪魔が言います。


「驚かせてしまって申し訳ありません。意識を取り戻したばかりのセレナが心配で、レオポルド様に休憩をいただいて顔を見に来ていたのです」


 悪魔の理不尽な謝罪要求にも兄様は顔色一つ変えずに応えます。謝罪すべきはお嬢様に無断でふれた悪魔ではないのですか? 今すぐその手をお嬢様から離してください。


「お嬢様、何か私にご用だったのでは?」

「そうなの!!」


 お嬢様が悪魔の手からするりと抜け出し、私の腕を掴み、すぐに手を離されました。


「ごめんなさい、セレナ。痛くなかった?」


 お嬢様が何を謝られているのかわかりません。


「アニー。セレナが脱臼したのは右腕だから、左は掴んでも痛くなどないよ」


 ああ。そういうことでしたか。私は本当に馬鹿かもしれません。ほとんど痛みがないせいか、その設定をすぐ忘れてしまいます。


「でもね、アニー」

「何ですか、レオ様?」


 悪魔が何かを企んでいる顔をしています。私が魔法使いなら、お嬢様の周りに防音結界を張るのですが、残念なことに私は凡人なのです。


「アニーがセレナの腕を掴むと、私の胸が痛んでしまうよ」

「え?」

「セレナにさえ嫉妬してしまう私をアニーは嫌いになるかい?」

「っレオ様!!」


 お嬢様が悪魔に抱きついてしまわれました。病み上がりの私にひどい仕打ちでございます、お嬢様。


「アニー、心が狭くてすまない」


 いやいやいや、その顔、全然悪いと思っていませんよね。


「でもアニーが悪いのだよ。アニーが私の心を占領してしまっているのだから」


 悪魔が私に向けて勝ち誇った顔をしていることに、お嬢様はお気づきにはなりません。

 

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