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セドリック殿下が部屋を出られてから少しして、カイン様が戻ってこられました。
「セレナ様に殿下からのお見舞いの品でございます」
手ぶらのカイン様の後ろにラウルがいます。訓練施設にいるはずのラウルが、今朝も魔力ノートには新たな書きこみがなくてどうしているのか心配していたラウルが、ずっと会いたくてたまらなかったラウルが、目の前にいることが信じられなくて声も出ません。
「セレナ」
ラウルの声です。出会った頃よりもほんの少し低くなった大好きな声。
「会いたかった」
記憶のラウルよりも少し痩せて、日に焼けて精悍になったラウルの腕に、今すぐ飛びこみたい衝動を何とか呑みこみます。感情が踊り出しそうになるのを必死で抑えます。
「私も会いたかった」
やっと出た声は小さすぎてラウルに届かなかったかもしれません。
「では、私はこれで」
「ありがとうございます」
部屋を出ていかれるカイン様にラウルがお礼を言い、私も慌てて頭を下げます。
ドアが閉まると、ラウルが大股で近づいてきます。
「セレナ」
ラウルの腕の中に囚われて、歓喜が弾け、安心に包まれます。
「ラウル」
ぬくもりを感じたくて、存在を確かめたくて、ラウルにしがみつきます。力の入りづらい右腕も懸命にラウルの背中に回します。
「元気な顔が見たかった」
ラウルはそう言って、しかし腕の拘束をといてはくれません。それどころかラウルはどんどん腕の力を強めていきます。
「ラウル、苦しい」
背中をとんとんと叩くと、ラウルが慌てて腕の力をゆるめてくれました。
「セレナ、ごめん」
そう言うと、ラウルは私を横抱きにし、私を抱いたままソファへ座りました。
「セレナが襲われたって聞いて、俺……」
ラウルの涙が私の頬に降ってきます。初めて見るラウルの涙に、胸が痛まないはずがありません。涙が涙を呼びますが、必死で押し返し、できるだけ元気に見えるように笑顔を作ります。
「ラウル、見て」
ほら、私は元気でしょうと、ゆがみそうになる笑顔に力をこめて、ラウルを見上げます。
「私は大丈夫」
涙を拭おうと伸ばした手がラウルに掴まれて、そこに唇があてられます。震える唇にラウルの不安を思います。
「もう元気だから」
ラウルが手から唇を離して、もう一度ギュッと私を抱きしめました。
「セレナ、俺のことが怖くない?」
私の肩口に顔をうずめて、ラウルが訊いてきます。
「ラウルが怖いなんて、あるわけないでしょう」
私が刺客を見抜けなかったことがラウルの不安を呼んでいるのかもしれません。
「私を襲ったのは刺客で、ラウルとは別人だって、ちゃんとわかっているから。ラウルのこと、怖いなんてありえない」
ラウルが顔を上げ、今度は私の額に額をあてて話します。
「セレナが大変なときにそばにいなくてごめん。すぐに駆けつけられなくてごめん。何もできなくてごめん」
「ラウルが謝ることなんて何もない」
「俺がセレナを守りたかった。セレナのためなら何でもできると思ってたのに、何もできなかった」
「私もラウルが大変なときに何もできなかった」
こんなに近くにいるのにラウルを遠く感じるのはどうしてでしょうか。
「セレナ」
ラウルの額がゆっくりと離れていきます。
「セレナが無事で、本当によかった」
涙がとまってもラウルの瞳の憂いは消えません。
「セドリック殿下が外出許可を取ってくれたんだけど、すぐに戻らないとならないんだ」
ラウルが戻ってきたのだと思いこんでいた私は淋しさに心が震えます。
「でも、訓練もあと少しだって言われたから」
「そう。きっとすぐよね」
落胆する自分を隠して口角を引き上げます。
「ああ、すくだ。だから待っててくれるか?」
「もちろん」
ラウルが何か言いたそうな顔で、私をじっと見つめています。
「どうかしたの?」
「……傷が見たいと言ったら、困るか?」
「ううん。レオポルド様と殿下のおかげで、すごくきれいなのよ」
「……セレナ。やっぱりまだ見せないで」
「え?」
「セドリック殿下が……いや、何でもない。時間がないんだ。もう行くよ」
「え、ラウル」
ラウルの膝から下ろされます。
「セレナ、すぐまた会える」
立ち上がったラウルがかがんで私の額に長いキスを落とします。
「俺のこと、愛してる?」
頷いた私を見て、ラウルが表情をゆがめました。
「俺も愛してるよ」
ラウルが最後にもう一度額にキスを落として出ていきました。
ラウルを追うことはできませんでした。
ラウルの後ろ姿でもいいから見たくて、窓から外を見ていますが、ラウルは出てきません。騎士仲間と話しているのかもしれませんし、食堂室についている勝手口から出たのかもしれません。
ラウルの涙、苦しげな表情、震えていた唇。訓練施設で肉体的にも精神的にも疲弊していたラウルが、今回のことで受けた衝撃を思うと、胸がつまります。
ラウルの口から出て、しかし吞みこまれてしまったセドリック殿下の名前。私と殿下の面白おかしく脚色された下世話な噂が、ラウルの耳にも届いているのかもしれません。ラウルは私の気持ちを疑っているのでしょうか。それともラウルの気持ちが冷めてしまったのでしょうか。それとも……キスしてもらえなかった唇を指でなぞって、よくないことばかり考えてしまいます。
一人でいると思考が暗闇に向かってしまいそうで、そろそろ目を覚まされてもおかしくないお嬢様の元へ行きます。
「お嬢様」
私の小さな呼びかけに反応したのはお嬢様ではなく、マーサさんでした。
「セレナ、さん?」
マーサさんの視線が忙しないのは記憶がつながらないからでしょう。
カイン様が用意された嘘をマーサさんは疑いませんでした。そしてもう大丈夫だからと、部屋を出ていってしまいました。私の分の仕事も請け負ってくれているマーサさんの多忙を思うと、引きとめることはできませんでした。
ここ数日、あまり眠られていなかったらしいお嬢様は眠りつづけていらっしゃいます。
愛らしいお嬢様のお世話をして、休みの日にはラウルとのデートを楽しむ。そういう生活を送るはずが、どうしてこんなにも変わってしまったのでしょうか。お嬢様の天使の寝顔を見ているというのに、心が晴れません。
お嬢様が入学されてからわずかの間に起こった事件のことを思うと、刺客に狙われているお嬢様を非力な私が守ることができるのか不安になります。足手まといになるくらいなら、お嬢様のおそばを離れるべきでしょうか。
「私がおそばにいるのはお嬢様のためになりますか?」
私の葛藤に、眠られているお嬢様は気づかれません。




