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 通信具が揺れ、そばに兄様がいることが気になりましたが、迷った末、応答しました。


「はい、セレナです」

「今から、行く」

「は?」


 悪魔がもう目の前にいます。

 もしも私が着替え中だったら、どうするつもりですか? という心の声を呑みこんでまずは頭を下げます。


「危ないところを助けていただいて、ありがとうございます」


 本心です。心からの感謝を悪魔に伝えます。


「気にするな、利子だ」

「利子?」

「ああ。一か月近くも借りていたのだから、利子ぐらいは払わなくてはな」


 悪魔の目がテーブルの上に出しっぱなしにしてある高級チョコレートをさしています。


「はあ」


 悪魔の照れ隠しでしょうか。どう言葉を尽くしても感謝の気持ちを伝えきることができないと思っていましたのに、こう言い返されてはこれ以上お礼を口にするのも野暮なような気がします。


「そんなことより、まずは腕を見せろ」


 悪魔の一言に、つい右腕を左腕で隠してしまいます。怖くてまだ自分の目で傷口を確かめられていないのです。


「まだ治癒が必要だ。そこらの治癒師よりも腕がよく、そこらの医師よりも知識もあり、さらに無料だ。お前が治癒を拒む理由はないし、権利もない」


 悪魔が強引に私のガウンを脱がせようとしているところへ兄様が起きてこられました。


「レオポルド。セレナの寝こみを襲っていたと、アン様に言いつけるぞ」


 私から手を離した悪魔が魔力を兄様に向けて放ちます。


「失礼しました、レオポルド様。寝ぼけていたようでございます」


 兄様は魔力に怯むこともなく言いきりました。


「ふん。まあいい」


 悪魔は簡単に魔力を治めてしまいました。兄様を本気で攻撃する気などないのでしょう。


「セレナ、そろそろ見てみないか? 多分、想像しているよりもずっと傷口はきれいだよ」


 兄様のやさしい言葉にもすぐには頷くことができません。


「なんだ。まだ見てもいないのか、この愚図め」


 悪魔が吐き捨てるように言います。


「仕方がないから、私が朝のコーヒーを一杯飲む間に心を決めろ」


 悪魔がそう言ってソファにドスンと腰を下ろしたときにはもう兄様はキッチンへ立っています。兄様は悪魔の行動が読めるのでしょうね。


「お待たせいたしました、レオポルド様」


 ちっとも待たされていないくせに、悪魔は返事もせずにコーヒーへ口をつけます。


「この豆は少し古くなっているようだな。レジナルド、お前も飲んで確かめろ」

「はい、レオポルド様」


 悪魔の言葉に兄様が肩を震わせてキッチンへ向かいました。素直においしいから一緒に飲もうと言えない悪魔がおかしいのでしょう。


「あ」


 唐突に、自分が夜着姿であることを思い出しました。眠っている間に散々見られていたのでしょうが、いくら幼なじみとはいえ、このままの恰好でいるのは恥ずかしすぎます。


「ん? 何か言ったか、セレナ?」

「いえ、何でも」


 耳もいいらしい兄様をごまかして、着替えるために浴室へ向かいます。


「ちょっと、身支度をしてきます」

「セレナなど、何を着ようが、髪を結おうが、さほど変わらない」


 悪魔の言葉は聞こえなかったことにして、脱衣所の扉を閉めます。


 ガウンを脱ぎ、思いきって夜着を脱ぎます。包帯が巻かれている以外は右腕におかしなところはありません。侍女服ではなく、飾り気のないワンピースに袖を通し、髪は左耳の下で一つに結びます。


 鏡に映った自分に問います。


「大丈夫?」


 鏡の中の私は頷きます。


「大丈夫」


 包帯は私でもほどけるくらいの魔力量で留められていました。


 深呼吸をして、心を落ちつかせて、包帯をとくために魔力を流します。はらりと、包帯が腕をすべって床へ落ちます。


 大丈夫。心の中でもう一度だけつぶやいて、右腕を見ます。


「ああ」


 安堵の声がもれ、安堵の涙がこみ上げてきますが呑みこみます。


「よかった」


 私の右腕はほんのわずかな赤みと、ふれなければわからないくらいの盛り上がりがあるくらいで、本当にきれいにくっついていました。




「レオポルド様、お待たせしました」

「私を待たせるとはいい度胸だな」


 悪魔の空のカップの底を私に見せて言います。


「申し訳ありません」


 今日の私は悪魔に逆らいません。悔しいことに悪魔は私の命の恩人になってしまったのですから。


「早くしろ」


 悪魔に右腕をめくって見せます。


「座れ」

「はい」


 悪魔と並んでソファに座るなど、いつ以来でしょうか。落ちつきません。


「セドリックに感謝しろ。あいつでなければ、こんなにきれいには治らなかった」

「はい」


 悪魔が右腕に直接ふれて、魔力を流します。痛いくらいに熱い魔力に、皮膚がみるみるうちに赤みを増していきます。


「あの、何を?」


 こんなに赤くなって、私の腕は大丈夫なのでしょうか。


「聞いたところでどうせ理解できない。黙っていろ」

「でも、こうやってレオポルド様の魔力を受けつづけていては王家の魔力がいつまで経っても抜けないのでは?」


 私の言葉に、悪魔が眉根を寄せ、兄様を睨みました。


「セドリック殿下の指示で、セレナには魔力のことを少しだけ話してあります」


 悪魔に睨まれても兄様は表情一つ変えません。


「体の外側からこうして魔力で治癒する分にはそこまで大きな影響はない。それから今度この話を口にするな。秘密を知ったものは一生口を噤むしかないのだ。自分の意志で口を閉じられないやつは、口を開けないように始末される」


 ただの脅しではないのでしょう。悪魔の本気の忠告に、簡単に王家の魔力などと口にしてしまったことを反省します。


「レジナルド、お前にも言っている」

「はい。申し訳ありません、レオポルド様」


 悪魔が手を離しても、私の腕の熱は引きませんでした。


「一、二時間で熱さはなくなるだろう。それまでは濡らさないほうがいい」

「はい」

「脱臼ということになっているから、傷が消えるまでは包帯で隠し、アニーに傷を見られないようにしろ」

「はい」


 兄様が私の腕にさっと包帯を巻いてくれます。


「アニーといえば、お前のせいで、アニーは痩せてしまった」

「申し訳ありません」

「謝罪など無意味だ。セレナが謝ったくらいで、アニーの心労が癒えるわけでもない」

「……はい」


 ではどうしろと?


「アニーの朝の支度はマーサがする」

「はい」


 私は当分魔法を使えませんので、マーサさん頼みになってしまうでしょう。


「今日は朝から王宮へ行く用事があるから、私の代わりにアニーと食事を取れ」

「……はい」


 悪魔は怒られに行くのではないでしょうか。


「セレナ、心配しなくてもいい。レオポルド様は新しく開発された魔法道具を提出しに行くだけだ」


 兄様は私の心が読めるとしか思えません。


「新しい魔法道具ですか?」

「お前のせいで厳重注意などというものに時間を割く羽目になったから、私に偉そうな口を利いたやつを平伏させてやろうと思って、この二日で画期的な魔法道具を開発したのだ」

「まあ」


 さすがは悪魔です。やられっぱなしにはなりません。


「そういうわけで私は忙しい。セレナでは私の代わりには到底なれないし、アニーは淋しがるとは思うが、それでも一人で食事をするよりはましだろう」

「はあ」


 悪魔を命の恩人だと敬おうと頭では思っているのですが、心がついていきません。


「私のアニーの素晴らしい能力について、セレナにはもう説明したか?」

「いえ、まだでございます」


 兄様は眉一つ動かさずに答えていますが、私のアニーって何ですか? お嬢様はまだ悪魔のものではありませんよ。


「では私が話してやろう」

「……はい」


 なんて偉そうなのでしょうか。


「お前は図々しいな」

「は?」

「いつまで私のとなりに座っているつもりだ。治癒が終わったのだから、さっさと立って、レジナルドのとなりにでも座れ」

「…………」


 悪魔は目が悪いのでしょうか。悪魔が座っているソファは三人掛けですが、兄様は一人掛けのソファに座っているのですよ。


「セレナ、ここに座りなさい」


 兄様が譲ってくれたソファに腰を下ろした私を見て、にやりと笑った悪魔に嫌な予感しかしません。病み上がりの私に悪魔は何を聞かせる気でしょうか。


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