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目が覚めると、真夜中でした。私のために寝ずの番をしてくれているのでしょう。小さな灯りの下で兄様が本を読んでいます。兄様がページをめくる音が、ひんやりとした室内に、やけに大きく響いて、そんなことでさえ、恐怖に結びつけそうになってしまいます。あのときのことを思い出した私は、感じたばかりの命の危険をまだ信じられないのです。深く考えたくない気持ちもあり、記憶の整理も心の整理もつけられていません。それでもまずは兄様を安心させたくて、体を起こしてできるだけ明るい声を出します。
「兄様」
兄様が弾かれるように、本から顔を上げて、こちらを見ます。
「セレナ」
兄様が読みさしの本を伏せて、歩いてきてくれます。
「具合はどうだ?」
薄暗い中でも兄様の目の下のくまがはっきりと見えます。ずいぶんと兄様に心配をかけてしまったようです。
「お腹が空きました」
空腹を感じているのですから、私は大丈夫なのでしょう。
「すぐ用意しよう」
兄様の笑顔がとってもあたたかく感じます。
「私はその間にお湯を使いたいのですが」
鏡を見ていないのでわかりませんが、三日もお風呂に入っていない私はボロボロに決まっています。
「セレナ。多分、一人で入浴するだけの体力はないと思う。明日、マーサさんに頼むから今日は我慢しなさい」
「でも……」
「毎日マーサさんとアン様が着替えと清拭をしてくれていたから、それほど気持ち悪くはないはずだ」
「お嬢様もですか?」
「ああ」
何ということでしょう。お嬢様をお世話する私がお嬢様にお世話されてしまったなんて。
「アン様ご自身が強く希望されてとめられなかった」
「まあ」
「それから洗髪も魔法で簡単にだけれど、毎日している」
「まあ」
「レオポルドがやった」
「えっ!!」
悪魔が私のために魔法を使うなど、天地がひっくり返ったのでしょうか。
「アン様に頼まれたのだ。アン様と一緒に嬉々としてやっていたから、気にするな」
一気に気になるようなことを兄様が言います。それにしても私は知らない間に、たくさんの迷惑をかけてしまったようです。
「話はあとでゆっくりしよう。私は食事の用意をしてくるから、といってもあたためなおすだけだけれどね」
兄様が部屋の隅の小さなキッチンへ向かったので、私はお手洗いへ行こうとベッドを下りましたが、ぺたりと尻もちをついてしまいました。どうやら私の想像以上に体力が消耗しているらしいです。
ベッドの端に手をついて、ゆっくりと立ち上がります。右手に力が入りにくいことからは目をそらして、足に意識を集中して歩きます。
洗面所の灯りをつけると、鏡の中の顔色の悪い自分と目が合います。そして耳にはブラックトルマリンが戻っています。お嬢様がはめてくださったのでしょうか。それから厚手の夜着に包まれた自分の腕が目に入ります。右腕の袖をまくる勇気はまだ持てません。
「セレナ、できたよ」
鏡の中の自分からも心の中の葛藤からも逃げて、兄様の元へ向かいます。
「すごい」
テーブルの上には私の好物ばかり、そして片手でも食べられるものばかりが並んでいます。ミルクスープ、ミートボールのトマト煮こみ、チーズとハムの盛り合わせ、サンドイッチ、ライ麦パン、蜂蜜漬けのリンゴ、一口パイの中身は何でしょうか。
「兄様、こんなには多分食べきれませんよ」
量が多すぎます。貴族でありながら、食べ残さないという崇高な信念を持っているのが、我がバーン子爵家ではありませんか。
「セレナは食いしん坊だな。病み上がりでそんなに食べるつもりか? 私も一緒に食べるに決まっているだろう」
兄様に笑われてしまいました。たしかによく見ると、カトラリーが二セット用意されています。
「まずはこれを着なさい。まだまだ寒いのだから」
兄様がガウンを羽織らせてくれます。こうされると子供の頃に戻ったみたいです。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。さあ、食べよう」
最初に手を伸ばしたのはミルクスープです。玉ねぎはとろとろ、じゃが芋はほくほくで、スープの甘さが染み渡ります。
「うーん。おいしいです」
お腹があたたまると、心にも余裕が生まれるものなのかもしれません。
「兄様、例の刺客のことですけど」
兄様は持っていたスプーンを下ろして、一瞬、天井を見上げてから口を開きます。
「まずは食べよう。食べ終わっても眠くならなかったら、食後に話そう」
たしかに食事中にする話ではないかもしれません。
「そうですね、兄様」
兄様の曇った表情を晴らしたくて、私は子供時代の話をすることにしました。共有している子供の頃の思い出は楽しいものが多いのです。
兄様と二人、現実から目をそらして、過去を見つめたままで食事を終えました。
食後の紅茶とデザートも兄様が用意してくれました。あの私の大好物の高級チョコレートまであります。
「このチョコレート、兄様が買ってきてくれたのですか?」
「いや、レオポルドが買ってきた」
「まあ」
悪魔が私にチョコレートを買ってくるなんて、春なのに雪が降るかもしれません。
「よくわからないが、セレナが起きたら渡せと言われた。借りを返すとか言っていた」
「まあ」
悪魔はあれを借りていたというのですね。そして兄様、あんなにガバガバ食べまくったくせに、このチョコレートに見覚えはないのですか?
「それで、どうする、セレナ」
兄様は話したくないのかもしれません。私もできることなら聞きたくありません。このまま目の前のチョコレートを食べて、ベッドにもぐりこみたい気持ちはあります。でもいつまでも目をそらしたままではいられないこともわかっているのです。
「何があったのか、教えてください」
お嬢様が目を覚まされる前に、気持ちの整理をしておきたいのです。
「セレナはどこまで覚えている?」
兄様の言葉で、お嬢様を迎えに行ったところまで記憶を巻き戻していきます。
「お嬢様の通信具の不具合を兄様に報告したあと、私の通信具をお嬢様の耳につけました。それから……」
恐怖が喉元までせり上がってきて、思い出すなと警告する自分を感じます。それでも逃げるわけにはいかないのです。私はお嬢様の元もラウルのそばも離れたくないのですから。
「ラウル……ラウルに変身した刺客を……私は見抜けませんでした」
情けなさが涙を呼びますが、泣いている場合ではないのです。泣き虫で弱い自分はもう十分に知っています。私は強くなりたいのです。自分の愛する人の横に立つために。
「それで、ラウルの胸に飛びこもうと、腕を伸ばしたのです。手首を掴まれて、そのとき初めて、ラウルでないと気がつきました。私が気づいたのと、ほとんど同時にお嬢様がレオポルド様の名前を叫ばれ、腕が、燃えるように熱くて」
右腕に目が行きます。兄様の視線も感じます。三日も眠りつづけたのですから、傷口はひどいものなのでしょう。それにしては痛みがないのです。ただ巻かれた包帯の存在だけを感じます。
「そこで記憶が途切れます」
泣きそうな顔をしている兄様に、私は気がつかないふりをしてチョコレートを口に入れます。オレンジピールの入ったチョコレートはほろ苦くて、泣きたくなってしまいます。再び顔を出した涙を紅茶と一緒に飲み下して、私は兄様が話し始めるのを待ちます。




