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お嬢様がお休みになられるまでは何かと忙しく、気が紛れていたのですが、自室に戻って一人になると、途端にラウルの不在を切なく感じます。これまでだって、始終一緒にいたわけでもないのにと、感傷的になっている自分に戸惑います。
そういえばと、悪魔からもらった黒いノートを開いてみると、早速ラウルの字が書きこまれていました。
『訓練施設に着いた。今日は訓練もなく、あてがわれた部屋の掃除をしただけで終わった。一人部屋なので考えごとばかりしてしまう。珍しく暗いほうへ向かいがちな自分の思考を持て余す。風呂のあと、最近友人が女装を始めたことを思い出した。まだ直接見ていないが、想像しただけで笑える。普段高慢ちきなあいつがどんな顔でスカートをはいているのかと思うと、笑いがとまらない。訓練中に思い出さないように気をつけようと思う。明日からの訓練は厳しいだろう。でも肉体の苦痛なら、いくらでも耐える自信がある。ただセレナに会えないことがつらい。声を聞けないことがつらい。愛を伝えられないことがつらい。時間が早くすぎることを初日から願っている俺は、騎士として軟弱すぎるだろうか。セレナの笑顔がもう恋しい』
「ラウル」
私の言葉はラウルには届きません。それでも呼ばずにはいられなかったのです。
二度読んで、それから文字を撫でてみました。少しでもラウルを感じたかったのです。
話し言葉は乱れっぱなしのラウルですが、書き言葉はきれいです。十四歳まで字を読めなかったラウルが、伯爵家に引き取られてから学園入学までの二年間で、読むだけでなく美しい文字を書けるようになったのです。そんな努力家のラウルが訓練で無理をしすぎないか心配です。過酷な訓練で怪我をしないか心配です。疲れると食が細くなるラウルが体を壊さないか心配です。心配はつきません。
もう一度読み返したあと、悪魔が悪魔の姿のままでスカートをはいているところを想像して吹き出してしまいました。でもラウルもこんなふうに想像して笑っていたのだと思うと、途端に笑いが淋しさに呑みこまれてしまいます。
ベッドに飛びこんで、まだ新しい枕に顔をうずめて泣くのを耐えた私が、眠りについたのは朝方でした。
爽やかとは言い難い朝を迎えて、それでも熱い紅茶を飲んで何とか自分を奮い立たせ、覚醒させました。時計を確認してお嬢様のお部屋へ向かいます。
お嬢様は「すーすー」とかわいらしい寝息を立てて、まだ夢の世界です。まずカーテンを開けて、朝の光でお嬢様を照らしてみます。眠りが浅いときはこれだけで目を覚まされることもあるのですが、どうやら今日は眠りが深いようです。
「お嬢様」
おそばで声をかけます。
「お嬢様」
二度目は少し大きな声で、しかし反応がないので三度目は声をかけながら、肩の辺りを揺すります。
「お嬢様~」
お嬢様が眉に皺を寄せられました。お嬢様の目覚めは近いようです。
しばし待ちます。
あら? 就寝時間の早いお嬢様は目覚めはよいほうなのですが、今日は珍しく起きられないようですね。
「お嬢様、朝でございますよ!」
もう一度お嬢様を揺すります。
「起きてるわよ」
そう言って、お嬢様が布団をぐいっと頭の上まで引っ張り上げてしまわれました。眠いのでしょうか。
「お嬢様、準備なさいませんと、レオポルド様との朝食の時間がなくなってしまいますよ」
悔しいですが、こういうときは悪魔の名前を出すに限ります。
「もう、セレナったら!!」
布団から顔を出されたお嬢様が朝からお怒りモードです。お嬢様のかわいらしい怒りはちっとも怖くはありませんが、どうしてお腹立ちなのかは気になります。
「どうなさったのですか、お嬢様?」
さすがはお嬢様です。睨んでも愛らしさが目減りしません。
「とっくに目は覚めてたの。でも起きたくなかったの」
「まあ、どうしてでございますか?」
お嬢様が急に恥ずかしそうにモジモジし始めました。
「……夢」
「夢を見ていらっしゃったのですか?」
「そうよ。夢を見ていたの。とっても、とっても、とっても、いい夢だったのに、セレナに邪魔されちゃったの!」
「まあ」
なんてかわいらしい理由で怒っていらっしゃるのでしょう。
「申し訳ありません」
私が頭を下げると、お嬢様が慌てて謝ってくださいます。
「ごめんなさい。セレナのせいじゃないのに八つ当たりしてしまって」
困り顔を作られたお嬢様の愛らしさはもう天使です。羽と輪っかはきっと収納式なのでしょう。
「いえ、楽しい夢を邪魔してしまって申し訳ありません。でも、そろそろ起きられませんと」
「今、起きるわ」
お嬢様がベッドの上で上半身を起こされたのを確認して、洗面所へ向かいます。お嬢様に使っていただくお湯を運ぶためです。
「あ、待って、セレナ」
「はい、何でしょう、お嬢様」
「おはようって言うの忘れてたわ。おはよう、セレナ」
「……おはようございます、お嬢様」
呼びとめてまで挨拶するお嬢様がかわいすぎてつらいです。
お嬢様のお顔を拭いて、次はお着替えです。今日は爽やかな空色のワンピースドレスを選びました。お嬢様はパステルカラーもお似合いになられます。髪は食後になおすので、簡単にサイドポニーテールにしました。
「そういえば、どんな夢を見られていたのですか?」
鏡の中のお嬢様が熟れたトマトのように赤くなられました。私はしてはいけない質問をしてしまったようです。
「そんなこと言えないわよ」
お嬢様がすごく訊いてほしそうな顔をしていますが、無視してもいいですよね?
「……レオ様とね」
訊いていませんよ、お嬢様。
「……スするところだったの」
お嬢様、よく聞こえませんでしたが、何を言おうとされたのかはわかりましたので、もうけっこうですよ。
「唇によっ」
ああ、聞きたくありませんでした。そしてナイスタイミングでお嬢様を起こした私、グッジョブ。
「レオ様には内緒よ」
「……はい」
お嬢様、私は口が裂けても言いませんが、悪魔はすでに聞いています。そしてきっと悶え死んだでしょう。
「絶対だからね」
「……はい」
私が遠い目をしていることに、お嬢様はお気づきにはなりません。




