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 古い記憶が私の脳をノックしました。


「あの、お嬢様」

「なあに、セレナ?」

「もしかして、マーガレット様の家名はスポルスティンではありませんか?」

「まあ!! なぜ知っているの? 実はマーガレット様の家名を自己紹介の時間に聞いたはずなのに、思い出せなくて困っていたところだったのよ。そうよ、スプルティン様だったわ」


 お嬢様、残念ながら間違っていらっしゃいます。


「スポルスティン様でございます」

「そうよ、スプルスティー様でしょ?」




 お嬢様がスポルスティン様と間違えずに言えるようになるまで、五分ほどかかりましたが、悪戦苦闘するお嬢様が大変かわいらしく、私とマーサさんにとって至福の五分間となりました。


「ところで、セレナはなぜマーガレット様がスポルスティン伯爵家の方だと知っていたの?」


 スポルスティンと噛まずに言えたお嬢様のどや顔が愛らしすぎて、理性が私から飛び立ちそうになりましたので、必死で理性を捕まえて、お答えします。


「お嬢様があく、ではなく、あの、レオポルド様と出会われたパーティーで、お嬢様たちが陛下へ挨拶されていたとき、すぐ横にスポルスティン伯爵とマーガレット様がいらっしゃったのです」


 憐れなお嬢様が悪魔の目にとまり、悪魔に婚約者なのだと信じこまされ、陛下の前まで連れていかれたあのとき、陛下へ挨拶していらしたのがスポルスティン伯爵でした。その伯爵を悪魔が威圧して、場所を空けさせ、悪魔はお嬢様を婚約者だと陛下へ紹介しました。あのとき伯爵と一緒にいたご令嬢がマーガレット様というお名前でした。あの日の記憶は遠いのに鮮明なのです。


「まあ、そうだったの」

「はい。マーガレット様はミルクティー色の髪に、淡いブラウンの瞳ではありませんか?」

「ええ、そうよ。ふう。私ったらダメね」


 お嬢様がバラ色のため息をもらされました。


「いつだってレオ様しか見えていないのだから」


 マーサさんの瞳にもバラ色の輝きがうつりました。見えませんし感じませんが、下でも悪魔がバラ色の魔力をまき散らしていることでしょうね。私の瞳からは輝きが消え失せましたけれど。


「でも覚えていないなんて失礼だわね。明日にでもマーガレット様に謝らなくてはいけないわね」

「お嬢様、覚えていなくてすみませんというのは、失礼に当たりますので何もおっしゃられないほうがよろしいかと。何年も前の子どもの頃のことですし、マーガレット様も覚えていらっしゃらないかもしれませんし」

「そう、かしら? そういうものかもしれないわね」


 お嬢様が納得してくださったようで安心しました。マーガレット様があのときのことを覚えていらっしゃった場合、自分の順番も殿下方の視線も奪ってしまったお嬢様を逆恨みされているかもしれません。つついたら蛇が出てきてしまいそうな藪には手を出してはいけませんよ、お嬢様。


「ああ、そうだわ。レオ様が買ってきてくださったこのチョコレート、とってもおいしいのよ。たくさんあるから、みんなでいただきましょう」


 うれしいです。たとえ悪魔のさし入れであってもチョコレートはチョコレートですからね。


「アン様、では今日学園でいただいてきたあの紅茶をお淹れしましょうか?」


 マーサさんの言葉にお嬢様が笑顔で頷かれますが、学園で紅茶が配られたのですか?


「ええ、そうね。みんなで紅茶も味見してみましょう」

「はい、ではご用意いたしますね」


 マーサさんは居間のほうへ向かわれました。茶葉を取りに行かれたのでしょうか。


「お嬢様、学園で紅茶をいただいたのですか?」

「ええ。そうだったわね、セレナにはまだ言っていなかったわ。今日ね、ヘリング辺境伯のご子息から、ダンスのお礼にって、紅茶をいただいたの。ご領地の名産なのですって」

「まあ、あのお嬢様がダンスを踊られた方ですか?」


 カリーナ様のドレスを踏んでしまった不運な学生さんは辺境伯のご子息だったのですね。


「そうよ、ジョシュア様とおっしゃるのよ」

「まあ、そんなに親しくなられたのですか?」


 出会ったばかりですのに、名前で呼ばれるなんて、悪魔はそばにいなかったのでしょうか。


「まだそれほど親しくはないけれど、気さくな方でね、名前で呼んでくださいねっておっしゃったの」

「そうなのですね」


 きっとあのとき、ジョシュア様はお嬢様のことを女神のようだと思ったことでしょう。あるいは天使でしょうか。そしてかなりの確率でお嬢様に心を奪われたはずです。しかしお嬢様に恋をされたとしても成就の可能性は限りなくゼロに近いのです。ジョシュア様が悪魔の逆鱗にふれることがありませんようにと、私は祈ることしかできません。


「でも、私、ほら、あまり男性の方とお話ししたことがないでしょう?」

「はい」


 悪魔が許しませんからね。お嬢様に近づく男性、ときには女性も悪魔の魔力の風で飛ばされます。


「だから一緒にいたキャサリン様が私の代わりに受け取ってくださったの」

「まあ」


 悪魔はお嬢様がほかの男性からの贈り物を直接受け取るのを阻止したかったのでしょうね。


「もちろん、お礼はしっかりと言ったわよ」

「はい」


 お嬢様のことですから、失礼な対応はなさっていないはずです。悪魔もキャサリン様の姿ではあからさまなことはできなかったでしょう。


「ただね、これは内緒なのだけど」

「はい」


 ひそひそ声のお嬢様がかわいすぎます。お嬢様はたとえ私と二人きりでも内緒話をされるときは小声になるのです。


「キャサリン様はどうやらジョシュア様に一目惚れされたみたいなの」

「まあ!!」


 どうしましょう。笑いをこらえるのがつらいです。腹筋の振動を抑えられません。


「だってね、私をジョシュア様には近づかせないようにしているのよ」

「まあ」


 お嬢様が悪魔の画策に気づかれる日が来るなんて驚きです。あまりにもびっくりして、笑いの波が去ったのは僥倖でしょう。


「内緒よ、セレナ」


 お嬢様がかわいらしく人差し指を口の前に立てられたところでマーサさんが戻られました。その愛らしい仕草のお嬢様を見てしまったマーサさんが紅茶ののったお盆を落としそうになりましたが、何とか体勢を立てなおして、事なきを得ました。


「ありがとうございます、マーサさん」

「……いえ、いいのよ、セレナさん」


 マーサさんは頬を赤らめたままで、紅茶のカップを並べてくれます。


「いい香りで、とてもおいしいわね」

「ええ、大変香り豊かで、色味も美しくて、高級な紅茶でございますね」


 お嬢様たちよりもカップに口をつけるのが遅れたのは、マーサさんが淹れてくれた紅茶の色と香りに、見覚えも嗅ぎ覚えもあったからです。


「……おいしいです」


 この紅茶は間違いなく、数時間前に兄様の部屋で出していただいた、エリーゼ様が兄様に分けてくださった紅茶と同じです。これはきっと偶然ではありません。悪魔が何らかの形で中身をすり替えたのでしょう。ジョシュア様が贈った紅茶をお嬢様に飲ませたくなくて。


「チョコレートにもよく合うわ、さあ召し上がれ」


 お言葉に甘えてストロベリーチョコレートをいただきます。


「まあ! 本当においしいです。甘さと酸味のバランスが絶妙で、後味もすっきりとしていて、紅茶にもよく合いますね。ごちそうさまです、レオポルド様」

「まあ、セレナったら。ここでお礼を言ってもレオ様には聞こえなくってよ」

「……はい、お嬢様」


 あまりのチョコレートのおいしさに、盗聴器越しに悪魔へ話しかけるという愚を犯した私が一人恥じ入っていることに、お嬢様はお気づきにはなりません。


レオポルドとアンの出会いのパーティーは4話の後半と5話になります。

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