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「ラウル」


 懇願するように名前を呼んでしまった自分の浅ましさに怖気立ちます。


「セレナ?」


 ラウルの膝から下りたのは逃げにほかなりません。ラウルが大変なときに、力になるどころか、心を煩わせているなんて、私は婚約者失格です。

 私が紅茶のカップに手を伸ばすと、ラウルもとなりでカップを傾けました。それからじっと私を見つめます。


「殿下と何かあった?」

「…………」


 沈黙が答えになってしまったのでしょう。ラウルは苦しそうにフッと息を吐きました。


「セレナは嘘が下手だな」


 眉尻を下げたラウルを見ているのがつらくて、ラウルの騎士服の胸元に視線を下ろします。ほつれた糸が目に入って、それすらも切なさを押し上げます。


「セレナ」


 ラウルの腕が迫ってきて、再び私はラウルの膝の上に抱き上げられてしまいます。どうしてもラウルの目を見る勇気を出せない私はその胸に顔をうずめます。


「セレナの嘘つけないとこ、好きなんだけどさ、今日はちょっときついわ」


 ラウルのかすれた声が胸を締めつけます。ラウルを傷つけてしまった自分が恨めしくて、下唇を噛みます。


「俺だってそこまで鈍いわけじゃない。セレナだけじゃなく、レオポルドもだし、レジナルドさんまで態度がおかしいんだ。セレナと殿下に噂以上の何かがあったかもしんないって思ってる」


 殿下と私の噂とは何でしょうか。怖くて訊くことなどできません。


「でもたとえ何かあったとしても、俺はセレナを手放せない」


 ラウルの声が震えていて、ラウルも怖いのだとわかります。何か言わなくてはと、顔を上げますが、目が合った瞬間に決意が砕け散ります。

 こんな切ない目をしたラウルに、私は何を言えるというのでしょう。混迷の心内を打ち明けてしまえば、もっとラウルを傷つけてしまいそうで怖いのです。


「ラウル……」


 そんな顔しないで、と続ける権利が私にはあるのでしょうか。


「もしセレナがしゃべって楽になんなら、聞くよ。でもできたら聞きたくない」


 ラウルの言葉に甘えてしまってよいのか、ラウルのぬくもりにすがってしまってよいのか、どこまでも浅ましくなってしまってもよいのか、私の惑いはとまりません。


「俺のこと嫌いになった?」


 ラウルの意外な言葉に、ラウルの腕の中で、ぶんぶん首を左右に振ります。


「よかった。セレナの気持ちを聞くのが怖くって、でもセレナに会いたくてたまんなかった」


 ラウルの真摯な言葉が胸をつきます。私も会いたくて会いたくて仕方なかったと、伝えたいのに、声を出すのも怖いのです。


「キスがセレナに拒まれなくて、それだけでいいって思ったのに、殿下の名前なんか出しちゃってごめん」


 ラウルが謝ることではありません。全部私が悪いのですから。


「すげえ聞きたくないんだけど、やっぱ、このまんまで別れんのつらいから、訊くわ。セレナ、殿下と何があった?」


 殿下と私の間にあったこと。あれをどう説明したらよいのでしょう。事実だけを伝えるべきなのでしょうが、それをしたときに、ラウルの気持ちが離れてしまいそうで怖ろしいのです。


「殿下がセレナを抱いて寮に運んだって聞いた。いつも冷静な殿下が焦ったような顔してたって、すげえセレナを心配そうに、大事そうにしてたって」


 あのとき、きっとたくさんの方に見られていたのでしょう。王太子殿下が侍女を腕に抱いて運んでいく姿を目にした方々は、その奇異に目を見張ったかもしれません。誤解を胸に抱いたかもしれません。憶測が真実として伝達されてしまったのかもしれません。訊けないせいで、不安ばかりがふくらみます。


「それから、観覧席で、殿下とセレナがいちゃついてたってのも聞いた」

「それは、違う」

「うん。わかってる。レオポルドの指示で、殿下の恋人のふりしてたんだろ? わかっててもちょっと妬いた。ていうか、セレナがひどい目に遭ったってのに、俺はセレナの心配をするより先に、セレナが殿下の腕に抱かれたってことに嫉妬した。最低だろ?」


 私はそんなことないと、首を左右に振るしかできません。


「それだけで嫉妬してたのに、セレナの態度で、もっと何かあったんだってわかっちゃって、今もうめちゃくちゃ不安になってんの、俺」


 ラウルはどこまでもまっすぐに私を見つめてくれています。そのまっすぐな瞳が私の疚しさを非難しているような気がして、私は目をそらしたくなります。


「殿下とキスでもした?」


 私は首を縦にも横にも振れませんでした。


「そっか……」


 それなのに、ラウルにはわかってしまうのですね。


「でもキスだけだろ?」


 頷いて、重い口を何とか開きます。


「……手の甲に、親愛の、キ、スと、治癒魔法を受けたとき、まぶたと額に、それから……睡眠魔法のときにも……よけるべきだったのに……唇に」


 私の告白を聞いても変わらないラウルの微笑みが、おやすみのキスを口にしなかった私の卑しさを糾弾しているように感じます。


「そっか。でも軽くだろ?」


 ラウルの人差し指が私の唇をノックして、私はラウルの指に向かって「うん」と答えます。


「じゃあ、問題ないよ。唇はさっき上書きしたし、ほかも今からたくさんキスしてあげる。だからもう、殿下のことなんか忘れて」

「……ラウル」


 ラウルが許してくれても、私は私を許せそうにありません。

 あの日の私は自分自身の感情を見失っていました。しかしそれが、殿下の恋情もどきを、一時でも受け入れてしまったことの理由になるでしょうか。私はそんな言い訳を自分でも認められません。

 私は一昨日、セドリック殿下に心を向け、ラウルから心を背けていたのです。王族の特殊な魔力のせいかどうかなど関係なく、それが事実なのです。


「セレナは馬鹿だな。キスくらい浮気のうちに入んねえよ。てか入れられちゃったら、俺、超浮気もんになっちゃうから」


 ラウルが軽い口調で言った言葉が、指先を冷やします。自分のことを棚に上げて、ショーン様が口にされたダンブル前男爵夫人の名前を思い出したのです。


「セレナ、今、妬いてるだろ? めっちゃうれしい」


 ラウルが私の額に、頬に、キスを落とします。それからラウルは、私の瞳を覗きこむようにして、やさしさで意地悪な笑顔を作ります。


「セレナ、この世の中には不可避なことっていっぱいあるわけ。俺もぼーっとしてて、押し倒されたり、唇奪われたり、押しつけられたり、さわられたり、そういうことはあった。いっぱいあった。セレナと婚約してからもだ」


 ラウルの告白が私の気持ちを和らげるためだとわかって、指先に体温が戻ります。私の身体は現金です。


「勘違いすんなよ。押し倒されても押し返すし、キスされてもすぐに離れるし唇は絶対に割らせない。胸を腕にぐりぐりされてもスマートに避けられるし、セレナにさわられたことがないとこに伸ばされた腕は容赦なく叩き落してる」


 子供の自慢話みたいに言うラウルがおかしくて、つい頬がゆるんでしまいます。私がこうなることがわかっていて、ラウルはわざと大げさに話してくれているのでしょう。


「俺にその気がなくても、迫られることは、多々ある。モテすぎるのは俺の罪か? モテる人間は気を抜いちゃいけないのか?」


 ラウルは完全に道化になって、私を笑わそうとしています。それなのに私は泣きそうになってしまっているのです。


「なっ、言ってなかっただけで、色々あんだよ、俺も。だからセレナもたった一度のことなんか、気にすんな。わかった?」


 このやさしさにすがってもよいのでしょうか。


「セレナ」


 ラウルが瞳に宿した情欲は私の理性を奪います。考えることを放棄した私はラウルを見つめることしかできません。


「セレナ。俺だけを見て、俺だけのことを考えろ。一昨日なんか、もう過去だ。俺はセレナの今と未来だけあればいい。それだけでいいから」

「ラウル」


 ラウルの降らせたキスの雨の下で、私は自分の浅ましさを受け入れました。


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