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私とラウルが恋仲になったのは、出会いから約一年後のことでした。私とラウルはゆっくりと、じっくりと、仲を深めてきたのです。
数あるラウルとの思い出を、順に頭の中で再上映しているうちに、学園の昼休憩を告げる鐘の音が聞こえ、私は慌てて体を動かします。
本来ならハウスメイドに頼むはずだった仕事も今回の刺客騒動を受けて、当分の間は私とマーサさんで担当することになったので、やることが多いのです。
床掃除の魔法道具を動かしながら、お嬢様の机の上を整理していきますと、あの忌々しい日記帳が目に入ります。昨夜お嬢様は一生懸命に文字を綴っていらっしゃいました。悪魔に見られるとも知らずに。ただ今のところ、悪魔は見に来た様子がありません。すぐに覗きに来るとばかり思っていましたので、それはそれで気になります。
応接室に移動してテーブルを拭いていると、悪魔のプレゼントのピンクのチューリップとかすみ草が目に入ります。お嬢様の部屋のあちらこちら、いえ、部屋中に悪魔の気配がしてつらいです。悪魔がいないのに、悪魔を思い出してしまう自分に腹が立ちます。しかし怒りという感情は力を生み出します。私は悪魔へのいら立ちを掃除にぶつけてスピードアップに成功しました。
ある意味、悪魔のおかげで昼休憩終了の鐘の前に掃除を終えることができ、一階で軽食の準備をして二階の悪魔の部屋まで来ました。両手がふさがっているので、中にいるはずの兄様の通信具を鳴らそうと思っていたら、内側からドアが開きます。
「セレナ」
ラウルです。ラウルの笑顔が私の涙腺をくすぐります。
「ラウル……」
言いたいことはたくさんあるはずなのに、言葉が続きません。瞳にこめた会いたかったという思いはラウルに伝わったでしょうか。ラウルの瞳は涙でかすんでよく見えません。
「セレナ、何をもたもたしている。早く入れ」
いつの間にか背後にいた悪魔の声で、涙がひゅん、と引っこみました。
「……すみません」
私が頭を下げているうちに、わきを通り抜けていった悪魔に続いて部屋に入ります。
「セレナ、それは私が」
兄様がお盆を受け取ってテーブルに並べてくれます。
「ラウル、セレナ、とりあえず座れ」
悪魔が顎で指したソファに、ラウルと並んで腰を下ろします。
「多忙な私がわざわざ時間を作ってやったのだ。感謝しろ」
「ああ、サンキュ。時間ないんだろ? 早くセレナと二人きりにしてくれ」
こんな性急なラウルは珍しいです。悪魔が睨みますが、ラウルは隣室につながるドアを指さして退室を促します。
「話があるんだが、お前たちのラブシーンなど見せられてはたまらないから、とりあえずは時間をやろう。十分だ。いいな」
「三十分」
「そんな時間はない」
「レオポルド、想像してみろ。アンちゃんと一か月会えず、声も聞けなくなるとしたら、その別れは三十分でも短すぎるだろ?」
悪魔が眉根を寄せて、それから口を開きます。
「……三十分、それ以上は絶対に認められないからな」
悪魔が譲歩とは珍しいです。
「それから、ここは私の部屋だ。絶対にいかがわしいことはするな」
悪魔は私たちを色情魔だとでも思っているのでしょうか。心外です。
「はい、はい。いかがわしいの定義は人それぞれだけどね」
ラウルは悪魔の失礼な言葉にも笑って答えます。
「とにかく三十分だ。三十分で、昼食も済ませろよ。今食べなければ、夜まで食べる時間がないからな」
ラウルの食事の心配をしてくれるなんて、悪魔も友だち思いなところがあるのですね。その気遣いを標準装備してほしいものです。
テーブルの上は兄様によって、簡単な食事ができるように、完璧にセッティングされています。早業です。さすがです、兄様。
「はい、はい。サンキュ。戻ってくるとき、ちゃんとノックしろよ。レジナルドさんもすみませんね」
ラウルはこんなときでも軽いです。その軽さが心もとなくて、ギュッとラウルの袖口をつかんでしまいます。それに気づいたラウルが目を細めて、袖口をつかんだ私の指先にキスを落とします。いつものようにピリリと体が反応して、涙が誘い出されます。最近の私の涙腺はゆるみっぱなしです。
「セレナ」
ラウルの声が熱情を帯び、その熱は私の胸を焦がします。ラウルへの恋情が胸に駆け上がってきて、たまらなくラウルを欲している自分に気がつきます。
「まず抱きしめさせて」
ラウルに包まれるのと、兄様たちが部屋を出ていくのと、どちらが早かったでしょうか。
「セレナ、セレナ、セレナ……」
ラウルが耳元で何度も私を呼ぶから、私はもうラウルのことしか考えられなくなります。
「ずっと不安だった」
ラウルがあまりにも切なげにつぶやくから、私はもう涙をとめることができません。
ラウルの片手が私の顎にかかります。こういうラウルを私はよく知っています。
「セレナ」
私も「ラウル」と呼び返したいのに、ラウルに唇をふさがれてしまってできません。ラウルの熱が私に注ぎこまれて、私もそれに応えたくてラウルを必死で求めます。
「愛してる」
一瞬だけ離されたラウルの唇がそう形作り、再び、私の元へ帰ってきます。
唇を重ねたまま、私はラウルの膝の上に抱き上げられ、口づけはこれ以上ないほどに深まり、私はラウルで満たされていくのを感じます。
流れ落ちた涙も二人の唇で共有して、濃密な口づけの対話は終わりが見えません。
長い間、私のものだったラウルの唇が離れてしまいました。
「セレナ」
「ラ、ウル」
もう涙はとまっているのに、涙声が出ます。
「セレナ、王太子殿下の話を聞いたんだ」
ラウルの口から出た王太子殿下の単語に、過剰に反応してしまった私に気がついたラウルの瞳は、哀切を帯びて瞬きました。




