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お嬢様の部屋へ戻り、浴室やベッド周りを片づけながらも、ラウルのことばかり考えてしまいます。
入学式の翌日、学園の教室でラウルと出会ったときのことを思い出します。
私は不運なことに悪魔と同じ年に生まれてしまいましたので、悪魔と一緒に入学し、そして悪魔と一緒に、ほかの同級生たちから遠巻きにされていました。すでに悪魔の存在を知る高位貴族の令息令嬢方はさわらぬ神に祟りなしで近寄ってもきませんでしたし、悪魔の悪行を知らないほかの同級生たちも入学式で早くも披露した悪魔の魔力の威圧に恐れをなして距離を取っていました。
そんな中、ラウルだけが私たちに話しかけてきたのです。
「ここ空いてる?」
四人掛けの机には私と悪魔しか座っていなかったのですから、もちろん空いていました。しかし悪魔は顔すら上げずにラウルを無視しました。
二人の動向を同級生たちが息をつめて見守っているのがわかりました。
新入生の中で一番身長が高くて大人っぽい外見をしていたラウルと、男子学生の中では一番背が低くて子供のような見た目だった悪魔は、共に突出した美形で、そういう意味でも視線を集めていましたので、注目は必然だったのでしょう。
「空いていますよ、どうぞ」
悪魔が微動だにしないので、仕方なく私が答えました。
「ありがとっ」
するとラウルは満面の笑みで、私と悪魔の間に座ったのです。左から、悪魔、空席、私、空席と、私の右どなりも空いていたにもかかわらずです。
私のラウルの第一印象は勇者です。
「なあ、何て名前?」
勇者は悪魔に果敢に挑みました。しかし悪魔は答えるかわりに、ラウルの髪を凍らせたのです。透明の薄氷の中に閉じこめられた真っ黒なラウルの髪はとてもきれいでした。
「えっ!! 何で俺の頭凍ってんの? うける。ねえ、お前がやったのこれ?」
勇者は恐れを知らないから勇者なのでしょう。ラウルは凍りついた自分の髪をさわって笑って言ったのです。これには悪魔も面食らった様子でした。
「レオポルド様、マクロス様に言いつけますよ」
当時の私はチクリ魔でした。悪魔の悪行を逐一マクロス様とエリーゼ様に報告していたのです。
悪魔は無言で氷を溶かしました。しかし乾かしてはくれなかったのです。瞬く間に濡れネズミと化したラウルに、私は慌ててハンカチをさし出しましたが、薄っぺらいハンカチではどうにもなりませんでした。それで私が魔法で乾かそうとしたのですが、あまりにもびしょびしょすぎて、とても乾かしきれませんでした。タオルでもあれば私の生活魔法でも何とかなったのでしょうが。
それで仕方なく悪魔に頼みました。
「レオポルド様、どうか乾かしてくださいませ」
悪魔は私の懇願ににたりと笑って言いました。
「セレナ、乾かせというお前の願いを叶えてやろう」
次の瞬間、ラウルは宙に浮き、そこに向かって四方八方から強烈な風が吹きました。ラウルだけでなく、すぐそばにいた私も、そして教室中が悪魔の風に襲われました。それはほんの数秒のことでしたが、とても長い数秒でした。
風がやむと、ラウルは座っていた椅子に戻されました。
「んごっ、ごほっ……ごほ、んっ、ごほ……」
当時すでに悪魔の魔力の風に慣れっこになっていた私は、その発動を感じてすぐに身を縮め、息をとめてやりすごしたのですが、ラウルは風のせいで激しく咳きこみました。
「大丈夫?」
「ごほんっ、ごほっ、んん」
私は慌ててラウルの背をさすりました。
「セレナ、礼は?」
「…………」
「お前の願いを叶えてやったんだぞ、礼を言うのが礼儀だろう?」
「…………」
そのうちに私は自分がさすっている背中が揺れていることに気がつき、悪魔の魔力に驚いたラウルが泣き出してしまったのだと思いました。
しかしラウルはお腹を抱えて笑い出したのです。
「ひーひっひひひひ……あーはっはっはっは……」
静まり返った教室の中にラウルの笑い声が響き渡り、私は何だか怖くなってラウルから手を離しました。悪魔を怖がらないラウルが当時の私には怖かったのです。
どれくらい笑い転げるラウルを見つめていたでしょうか。いつの間にか教室に入ってきていた先生の「授業時間ですよ」の声に、同級生たちは席に着き、ラウルは何とか笑いを治めました。
一限目は自己紹介でした。
先生は爵位と名前と年齢、それから婚約者の有無を発表するようにとおっしゃいました。
学園生活において、爵位に関係なく交流するようにと前日の入学式で言われたばかりでしたが、それは建前で、やはり爵位を意識してすごすようにというのが学園側の本音なのだと、私を含めたほとんどの学生が気づきました。そしてそれは同時に公爵家の悪魔を注意できる先生が学園にはいないということでもありました。当時の学園内で悪魔に意見できたのは高等学園魔法科一年でいらしたセドリック殿下だけだったでしょう。
そして学園は学びの場であると同時に、出会いの場でもありました。特に王都から離れた領地から出てきた方々、そして私のような末端貴族の子女にとっては、婚約者探しの場でもあったのです。
前列通路側の生徒から自己紹介が始まりました。特に盛り上がることもなく、それでも全員に拍手を送りながら自分の順番を待ちました。私たちの席は一番後ろの窓側だったので最後でした。
「バーン子爵家のセレナと申します。十四歳です。婚約者はおりません。よろしくお願いいたします」
悪魔と一緒に行動していた私が子爵家であるとわかった瞬間に、少しざわめきが生まれましたが、それでも礼をすると拍手をもらえました。
「サイクロス伯爵家のラウルです。十六歳。二年前まで平民街で暮らしてたんで、貴族らしくないってよく言われるけど、よろしくね。婚約者も彼女もいないんで、どっちも募集中です」
平民街というワードに、はっきりとしたざわめきが生まれ、ラウルがぺこりと頭を下げて席に着いても拍手がまばらにしかおきませんでした。平民街出身ということは元平民ということだからです。
貴族というのは血を大切にします。高貴な血脈であるということが、貴族の尊厳であり、存在意義なのだと、家庭で教えこまれて入学してきた同級生たちにとって、ラウルのカミングアウトは衝撃だったのでしょう。そしてラウルを仲間として認めることなどできないと思っていた方も多かったでしょう。実際に卒業までラウルを無視した方もいましたし、陰口を叩く方も少なくありませんでした。まあ、陰口に関しては、ラウルがあまりにモテすぎて、それに対する僻みが多分に混じっていたとは思いますけれど。
「程度の低いやつらと授業を受けなければならないことが苦痛だな」
教室に不穏な空気が漂う中、悪魔が立ち上がりもせずに言いました。
悪魔の言葉にラウルが体を強張らせたのがわかりました。微笑んではいましたが、同級生たちの冷たい反応と悪魔の言葉に、あのときのラウルは傷ついていたのかもしれません。
「お前たちは貴族の序列を理解しているのか?」
誰もが悪魔の言葉に耳を傾けていました。悪魔を熱く見つめる瞳もありました。悪魔がラウルを責め立てるのだと思っていたのでしょう。自分の思いを代弁してくれると。
しかし悪魔は他人の期待になど応えないのです。
「こいつはたとえ元平民だったとしても、今は伯爵家の子息だ。ここに伯爵家以上のやつはこいつ以外に七人しかいない。つまりその七人しか、こいつを馬鹿にすることも、こいつに偉そうな口をきくことも許されない。学園では爵位に関係なく平等だと信じている馬鹿がいるのか? ここですごすのは長くて四年、そのたった四年の生活で、その後の何十年と続く貴族生活がどうなってもいいと思うような愚か者は、爵位に頓着せず学園生活を送ればいい」
ラウルが目を丸くして悪魔を見ていました。悪魔がその視線に気づいて、ラウルに言い放ちました。
「勘違いするな。お前をかばったわけではない。アホどもに忠告してやっただけだ。あまりにも頭の悪いやつらとは、同じ空気を吸うのも腹立たしいからな」
そういうと悪魔は立ち上がりました。
「サターニー公爵家、レオポルド、十四だ。ここにいる誰よりも爵位が高い。だから気安く話しかけるな。それから私には素晴らしい婚約者がいる。だから爵位目当てで近づいてくる女は物理的に排除する。最後に、私は口よりも先に魔力が出るタイプだから、言動に気をつけたほうが身のためだと言っておく」
教室中からわいた割れんばかりの拍手が、私には同級生たちの悲鳴に聞こえました。




