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「奥様」
「なあに、セレナ?」
「この部屋にも結界張られていますよね?」
「ええ、この部屋というより、アンの居住スペースとセレナの部屋にね」
ですよね。殿下とマーサさんにそう聞きましたし、魔力の少ない私でもぼんやりとはわかります。
「ではなぜ、お嬢様のベッド周りにさらなる結界が?」
悪魔はどういうつもりでこんなことをしたのでしょう。心配なさっている奥様たちがお嬢様をお近くで見られませんし、それにもしもお嬢様が布団をはだけられたとしても直してさしあげることすらできないではありませんか。
「うふふ」
奥様、急にお顔をほころばせてどうなさったのですか。とてもお美しいですが、何だか少し嫌な予感がします。
「レオポルド伯爵の愛よ」
やっぱりです。そういうお顔でしたもの。そして奥様、そんなに期待をこめた目で見ないでくださいませ。私は期待には到底応えることなどできませんから。
「…………」
「…………」
美人の目力って、暴力ですよね?
奥様はかつて社交界一の華と言われた方です。お嬢様と同じエメラルドの瞳、お嬢様の髪色を数段明るくしたつややかなブロンド、そして少々厚めの唇の下のほくろが艶めかしい、匂い立つような麗人。三十代半ばとなられた現在でもその美貌は健在でいらっしゃいます。そんな奥様にじっと見つめられてしまったら、抗えませんよ、絶対に。
「……愛でございますか?」
悪魔の愛の話なんて、本当は聞きたくないのですよ、奥様。
「ええ!! 愛なの」
「…………」
「立ち話もなんだから、座りましょう。どうせアンには指一本ふれられないのだし」
一時的とはいえ、我が子を抱きしめる権利すら奪われているのですね、奥様、そして旦那様。
「さあ、セレナも座って、座って」
旦那様と奥様の前に座らせていただきます。
「あっ!! 奥様、私が」
奥様がお茶を淹れようと茶器に手をかけられましたので、慌てて立ち上がります。
「いいから、セレナは座っていて」
「でも」
「それとも私の淹れたお茶は飲めないとでも言うのかしら?」
「……そんなことはありません」
「そうよね、黙って座ってなさい」
奥様のこういうところはどこか悪魔に通じるものがあります。
「セレナ、ラファは言い出したら聞かないから、座りなさい」
旦那様にも言われて、座りなおします。
「それにラファの淹れるお茶はすごくおいしいのだよ」
「昔、うちが傾きそうになったことがあって、使用人が少なかったから、仕方なく覚えたのよ。もちろんデビュー前の話よ」
奥様は何でもないことのようにおっしゃいますが、お茶を淹れる使用人にも困るというのはけっこうな貧窮ですよね。
「でもデビュタントの舞踏会でセバークに出会って」
奥様と旦那様の視線が甘く交差します。
「実家はセバークのうちの援助を受けて持ちなおしたし」
奥様のご実家の伯爵家は紡績業で成功していらっしゃるとうかがっておりますが、順風満帆ではなかったのでございますね。
「私はこうして優雅に伯爵夫人ライフを満喫しているの。全部、セバークのおかげね」
奥様が旦那様へウインクをされました。横で見ているだけでもドキドキしてしまいます。
「私がこうして幸せなのもラファのおかげだよ。明るく元気で、しかもお茶まで上手に淹れられる美人と結婚できた私は果報者だよ」
旦那様と奥様はおしどり夫婦でいらっしゃいます。いつも仲がよろしくて、しかも無節操な悪魔と違って、微笑ましい愛のやり取りをなさるので、見ているこちらもあたたかい気持ちになれるのです。
「さあ、どうぞ」
奥様は紅茶と一緒にフィナンシェとマドレーヌ、そしてあの高級チョコレートを出してくださいました。兄様と私が食べた残りなのでしょうか。
「いただきます」
香りも味も最高です。茶葉がいいのもあるでしょうが、本当に奥様はお茶を淹れるのが得意なようです。
「おいしいです」
「よかったわ」
「遠慮しないでお菓子も食べてね。私たちはもうたくさんいただいたから」
「ありがとうございます」
夕飯を終えたばかりですが、食後のお茶も飲まずに来たのでありがたいです。チョコレートに手が伸びます。
クラッシュアーモンドが入っていました。かすかな香ばしさが紅茶によく合います。
「セレナはそのお店のチョコレートが好きなのね」
表情筋がゆるんでいたのでばれたのでしょうか。
「はい。大好きです」
自室に隠し持っておくくらいに。
「そうなのね。私たちも少しいただいたけど、口どけのよいチョコレートでおいしかったわ。ご馳走様、セレナ」
「…………」
ご馳走様ということは……。
「セレナからの差し入れだって、レオポルド伯爵にうかがったわ」
「…………」
今日の夕方の一幕が高速で脳内再生されていきます。おいしかったイチゴとマスカットのチョコレート、味わうことなく口に詰めこんでいった兄様、そしてそれを兄様へさし出した悪魔。
「ん? どうかしたの?」
「……いえ、お口に合ってよかったです」
悪魔が転移で私の部屋へ不法侵入して、兄様へ献上したのでしょうか。それを知らずに私は感謝すらして食べたというのでしょうか。確認しに走りたいところですが、じっと我慢です。我慢は得意なはずです。悪魔との短くないつき合いで培ってきた忍耐力が私にはあるはずなのですから。
「それでレオポルド伯爵の話なんだけど」
ああ、すっかり忘れておりました。奥様は悪魔の愛の話を聞かせるために、私をここに座らせたのでした。でも奥様、悪魔に秘蔵のチョコレートを盗まれたかもしれない。いえ、きっと盗まれてしまった私にはあまりにも酷な仕打ちでございます。
「伯爵は愛情深くて、少し過保護でいらっしゃるでしょ?」
「…………」
奥様、私に同意や相槌までは求めないでくださいませ。今の私は耳を傾けるだけで精一杯なのでございます。
「あんなことがあったから、伯爵は大変心配なさってね」
これには頷けます。あんなことがあったあとで、しかも残党がいる中、お嬢様のそばを離れるのは身を引き裂かれるような思いだったことでしょう。
「私たちがここへついてもアンを腕から離されなくって」
奥様、どうしてそんなにうれしそうにお話しになるのですか。安全な場所についたら離すべきでしょう。
「私たちなどアンにさわらせてももらえないんだよ」
旦那様が不満の声を上げられます。心配している肉親にもお嬢様をふれさせないとか、どんな精神構造をしているのでしょうか、悪魔は。
「それは仕方ないでしょ、セバーク。それに私はアンを着替えさせるときに、しっかりと抱きしめましたわ」
「…………」
旦那様は奥様には逆らえません。これも奥様への愛ゆえでしょうか。
「それでね、セレナ」
「……はい」
「伯爵は部屋を出るときにまずアンをベッドに下ろして結界を張られて、さらにこの三階部分全体に結界を張っていかれたの」
「……そうですか」
悪魔の最上級防御魔法をこれでもかと重ねがけされているはずのお嬢様に、結界魔法の二重がけとか、あまりにもやりすぎではないでしょうか。といいますか、どうせ悪魔の結界を破る猛者など現れないのに、意味があるのでしょうか。
「愛よねえ」
奥様、どこらへんにうっとりポイントがありましたか?
「あの、でもなぜそこまでする必要が?」
「セレナは聞いていない? まだ刺客がいるらしいのよ」
「マーサさんから聞きました」
「そう。その刺客はかなりの魔法の使い手の可能性があるらしくて、万が一、三階部分の結界が破られた場合、二重にしておけば、異常を察知して転移してくるまでの時間稼ぎになるからって、伯爵はおっしゃっていたわ」
過保護の悪魔らしい保険ですこと。
「でもレオポルド様の結界を破る魔法使いがいるとは思えません」
先ほども連続する強力な攻撃魔法に、悪魔の結界はびくともしませんでしたし。
「そうよね、セレナは伯爵の結界の強固を実感したのだものね」
「……はい」
「そうだったわ!!」
奥様が急に立ち上がられて、私に勢いよく抱きついてきます。
「お、奥様」
見かけによらず怪力でいらっしゃいますね。少し息が苦しいです。
「アンを守ってくれて、ありがとう!!」
奥様の腕に一段と力がこもります。本当に苦しいです。
「あの場にセレナがいてくれて、本当によかった」
何だかくらくらします。
「ラファ、離しなさい!! セレナが死んでしまうよ」
「ごほっ、ごほごほ……」
旦那様の声で解放された私ですが、突然送りこまれた酸素でむせ返ってしまいます。
「ごめんなさい」
奥様が謝りながら今度はやさしい手つきで背を撫でてくれます。
「つい力が入ってしまったの」
「……いえ……大丈夫です」
旦那様の制止が遅れていたら、危なかったかもしれませんが。
それにしても悪魔の強力結界の中で死の危険を感じることになるとは思いもしませんでした。
こうして私が思わぬ命の危機にあったことに、夢の中のお嬢様はお気づきにはなりません。




