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 目が覚めると、枕元で繕い物をしているマーサさんと目が合いました。


「体調は大丈夫ですか?」

「はい」


 マーサさんのまなざしに母様を思い出しました。小さい頃、私が体調を崩すと、枕元で縫物や編み物をしながら、ずっとそばについていてくれた母様。


「今何時でしょうか?」

「八時をすぎたばかりですよ」


 一時間ほど眠っていたみたいです。


「アン様もまだ眠られているから、軽く汗を流してきたらどうかしら。お風呂の準備はできていますよ」

「ありがとうございます。それとマーサさん、私たち同僚ですし、私は年も下ですし、言葉崩してください」

「ありがとう。じゃあセレナさんもそうして」

「はい。ただ、お嬢様たちの前、特にレオポルド様の前では丁寧に話しましょうね」


 自分の口の悪さを棚に上げてうるさいので。


「わかったわ。お風呂ごゆっくり」




 浴室にはラベンダーの香りが漂っています。ラベンダーは沈静や沈痛の効果がありますから、マーサさんが選んでくれたのでしょう。いい香りです。リラックスできます。ラベンダーの花が悪魔の目の色なので、今までは忌避していたのですが、これからはラベンダーもバスオイルのローテーションに入れることにしましょう。花に罪はありませんものね。


 それにしても今日という日はいつ終わるのでしょうか。あまりにも濃いできごとばかりで、思考整理が追いつきません。



 お嬢様と一緒に寮に入るために早起きして、寮の中で悪魔とあれやこれやあって、お嬢様を入学式へ送り出し、ラウルと小休憩。式から戻られたお嬢様と一緒に悪魔の話を聞き、通信具をもらい、舞踏会仕様にお嬢様を飾り、それから兄様の告白と悪魔の開眼。舞踏会へ向かう前にショーン様に会い、ラウルの女性関係をちらつかされ、悪魔に救けてもらい、舞踏会の会場ではなぜだか王族席に座らされ、セドリック殿下にからかわれて涙。舞踏会は火種嬢のぽろり事件、刺客の襲撃、そして捕縛。それから号泣と羞恥と混乱。



 私の脳はまだ混乱の最中にあり、正常に機能していません。だから早くラウルに会いたいです。ラウルに抱きしめてもらえれば、この気持ちの乱れも治まると思うのです。私は湯船の中で自分自身をギュッと抱きしめました。




 お風呂を出ると、マーサさんが夕食の準備をしてくれていました。ミルクスープの香りが空腹を刺激します。思えばしっかりと食べたのは朝食だけです。あとは飲み物とおやつだけ。ダイエットになったかもしれません。


「部屋から出られないから、簡単なものしか用意できなくて」


 マーサさんは申し訳なさそうに言いますが、十分です。ただ部屋から出られないということは、まだ刺客問題が解決していないということでしょうか。


「いえ、お腹ぺこぺこなのでありがたいです。いただきます」


 ミルクスープはやさしい味がします。貝の旨味とキャベツの甘味が絶妙です。食堂室から運んできてくれたのでしょうか。


「おいしいです」

「そうよね。私もいただいたのよ。ここの料理人は腕がいいわね」


 同感です。きっとお嬢様のために、腕がよく身元もしっかりしている人物を悪魔が探してきたのでしょう。


「それで、今、どういう状況なのでしょう?」

「ごめんなさい。詳しいことはわからないの」

「ではわかっていることだけでも」

「そうね、六時半すぎだったと思うけど、護衛騎士たちがほとんど出ていってしまって、レジナルド様から通信が入ったの」

「兄様から?」

「ええ。学園内に刺客を確認したけれど、私たちがいただいた通信具には伯爵の防御魔法がかけられているから安心していいと。それからアン様の部屋の用意をするようにと。それでお部屋を整えて下で待機していたら、伯爵がアン様を抱いて戻られて、それからセレナさんと王太子殿下、少ししてカーター伯爵夫妻が戻られたの」


 私が殿下に運ばれているところをマーサさんに見られていたのですね。寮に到着した頃、私は泣きやんでいたのでしょうか、訊けません。


「それからすぐレジナルド様からまた通信が入って、カーター伯爵夫妻が寮でお泊まりになられることと、私も三階で休むことになったと言われて、皆様の最低限の宿泊準備と食事の用意を頼まれたの」

「お一人で準備されるのは大変ではありませんでしたか?」

「大変だったわよ、ここ三階だもの」

「すみません」


 私も手伝うべきだったのにと、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。


「何でセレナさんが謝るのよ。セレナさんがアン様をしっかり守ったって、カーター夫人から聞いたわ」

「守ってなど……」


 ただ震えていただけなのに、奥様の目にはそう映っていたのですね。


「謙遜しないの。攻撃魔法を受けるなんて、そうそうあることじゃないわ。しかも相手は刺客を請け負うくらいの魔力自慢よ。怖いのは当たり前」

「でも、レオポルド様の強固な結界の中にいただけなのです」

「それでもよ。火炎攻撃にも気を失うことなく、アン様をずっと抱きしめていたんでしょう? 夫人から見えていたということは、セレナさんも攻撃が見えていたのでしょう?」

「……ええ」


 スプーンがスープ皿を打つ音で震えていることに気がつきました。もう脅威は去ったというのに、恐怖の残滓が自己主張してきます。


「ああ、ごめんなさい。怖いことを思い出させてしまって」


 マーサさんが立ち上がってやさしく肩や背中をさすってくれます。


「大丈夫よ。ここにいれば大丈夫」


 人のあたたかさというのは、恐怖より強いのかもしれません。マーサさんのぬくもりに安堵して、震えが治まっていくのがわかります。



「すみません。もう大丈夫です」


 マーサさんを見上げて微笑めば、マーサさんも微笑み返してくれます。サターニー公爵家、カーター伯爵家に続いて、ここでも同僚運はいいみたいです。


「続きを話してもらっても?」


 席に戻ったマーサさんに話しかけます。


「大丈夫なの?」

「はい。少し情緒不安定かもしれませんが、お嬢様が起きられるまでに状況を把握しておきたいので」

「そう」


 マーサさんは眉を寄せられて躊躇の表情でしたが、私が笑顔で催促すると続きを話してくれました。


「準備が完了すると、伯爵が部屋を出ていかれたの。カーター伯爵夫人から、伯爵が結界を張っていかれたことと、伯爵が舞踏会会場の混乱の収束へ向かわれたこと、それからまだ捕まっていない侵入者がいると聞いたわ。それくらいしか知らないの」


 刺客の残党。大丈夫、悪魔の結界が破られないことは身をもって実証したでしょう、と不安に絡めとられそうな自分に声をかけます。


「それから少しして今度は伯爵から通信が入って、一時間くらいで目が覚めるはずだから、その頃セレナさんについていてほしいって言われたの。目が覚めたとき、一人だと……その……不安だろうからって」


 マーサさんって正直者ですね。目が泳いでいますよ。どうせ悪魔は不安だろうからではなく、目が覚めて騒ぎ出したらうるさいからとでも言ったのでしょう。


「とにかく、伯爵が戻られたら詳しい説明があるらしいから、それまでゆっくりしていましょう」

「お嬢様の顔だけ見てきても?」

「いいけど、目の前の食事を残さず食べてからにしてね。運ぶの大変だったんだから」


 マーサさんがかわいらしく頬をふくらませて言ったので、吹き出してしまい、不安もどこかへ飛んでいってくれました。




 食事のあと、お嬢様の部屋へ向かいます。続き扉って便利ですね。


「失礼いたします。大変なときにお休みをいただいてすみません」


 ソファに座られている旦那様と奥様へ頭を下げます。


「ああ」


 旦那様は片手を軽く上げて微笑んでくださいます。


「セレナ」


 奥様は今にも泣き出してしまわれそうな、そんな頼りない笑顔で私を見上げられます。話したいことはたくさんありますが、まずはお嬢様が先です。


「先にお嬢様のお顔を拝見させていただきます」


 一礼してお嬢様のベッドへ向かいます。気が急いているのでしょうか、早歩きになってしまいます。


「セレナっ!!」


 バイ―――――ン。


 奥様の性急な声のあと、透明な何かに体を弾かれました。床に尻もちをついているのに痛くないのは悪魔の防御魔法のおかげでしょうか。そして私を弾いたのも悪魔の魔法ですよね? 


「セレナ!?」


 奥様が駆け寄ってきてくださいます。


「……奥様」

「大丈夫?」

「はい。驚いただけです」


 奥様の手をお借りして立ち上がります。


「レオポルド伯爵がね、アンのために結界を張ってくださったのよ」


 奥様がお嬢様のベッドに目を向けて話されます。


「だからベッドから一メートル以内には近づけないの。言うのが遅くなってごめんね」

「いえ、私が奥様の制止を聞かずに近づいてしまったのですから、謝らないでください」

「ありがとう。まずは一緒にアンの寝顔でも見ましょうか」


 奥様と一緒に、今度はゆっくりとお嬢様のベッドへ近づきます。そして奥様が立ちどまられたところで私もとまります。先ほどは気がつきませんでしたが、ここにも結界が張られているのがなんとかわかります。結界内結界だからでしょうか、境界がわかりにくいです。


「健やかでしょう? アンは怖いことも何も気づかずに眠っているのよ」

「よかったです」


 お嬢様の愛らしい天使の寝顔を目にして安心します。和みます。お嬢様の寝顔はこの世の癒しの最高峰です。尊いです。

 お嬢様はご自身の寝顔が私にとって治癒魔法並みの癒しであることにお気づきになってはおりません。



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