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何も見ず、ただ時おり「大丈夫だ」と「泣かなくていい」と囁かれるセドリック殿下の声と、殿下の心音に耳を澄ませていました。そうしているうちに、少しずつ恐怖と不安の織り上げた混乱が収まっていきました。それと同時に涙の蛇口が少しずつ閉まっていきます。
だんだんゆるやかになっていった涙は、最後はまるで私自身を慰めてくれているようにやさしく頬を濡らします。涙の温度が私にそう感じさせたのかもしれません。
「セレナ、着いたよ」
殿下にふわりと下ろされたのは、寮の私室のベッドでした。殿下がやわらかな布団をかけてくださいます。
新品でまだなじんでもいないベッドですが、それでもベッドというのは安心感があるものです。その安心が急に私に羞恥心を思い出させました。
「セレナ、布団にもぐったところで今さらだよ。セレナの泣き顔は十分に堪能したからね」
泣き出してすぐに殿下が胸を貸してくれたのですから、そこまで見られていないはずです。
「嘘」
つい布団から顔を出してしまった私に、殿下は吹き出されました。
「さあ、セレナ。私が嘘つきにならないように、その顔をよく見せて」
「嫌です」
私は再び布団を目の上まで引き上げます。涙の跡が色濃く残る情けない顔を見られたくはありません。
「私もセレナの顔を見て安心したいんだよ。お願い」
殿下が本当に不安げにおっしゃるので、私は布団から顔だけ出して、殿下を見上げました。
「おいで」
殿下がベッドに腰かけられて、私に向かって両手を広げていますが、演技でも緊急事態でもない今は飛びこめるわけがありません。
「さっきまでは私の腕の中だったのに、残念だ」
そうおっしゃって殿下は私の顔の脇に手をおいて、私に顔を近づけてきます。反射的に体を強張らせた私を殿下は至近距離で笑われました。
「勘違いの通りにしてあげてもいいんだけどね」
殿下の息が顔にかかってくすぐったくて、目を細めてしまいます。さっきまでひどく泣いていたので、目の周りが引きつるように痛みます。
「目がひどく腫れてる。治癒魔法をかけるだけだから、目をつむって」
殿下のやさしい声音に、私はまぶたを下ろします。
「セレナ、いい子だ」
殿下の唇が熱を持った右まぶたにふれ、ゆっくりとまぶたが冷やされていくのを感じます。まるでキスを受けたときのように、心臓が高鳴ってしまったのは誤作動です。だってこれは治癒魔法。ただの治療なのですから。
「素直になっていいんだよ、セレナ」
何のことでしょうか、殿下。私は今、とても素直に目を閉じているではありませんか。
「セレナ、まだそのままだよ」
殿下の唇が今度は左まぶたに移動します。すっかり熱の引いた右まぶたがひどく頼りなく感じるのはなぜでしょう。
ゆっくり、ゆっくりと、殿下の魔力が私の皮膚に浸透していきます。殿下の魔力はとても心地がいいです。まさに魔性の力です。今、両手を広げられたら、その胸に飛びこんでしまうかもしれません。そんなこと絶対にいけないのに。
殿下の唇が離れていくのが淋しいと感じるのは、魔性の力のせいに違いありません。
ゆっくりと目を開けます。まだ目の前には殿下の顔が残っていました。
「頭痛は?」
殿下の瞳が妖しく光ったように感じました。誘惑の色に私の理性と本能がせめぎ合います。
「大丈夫です」
泣きすぎて頭がぼんやりしていますが、痛いというほどでもありません。
「素直に答えるんだ、セレナ」
「ほんの少しだけ」
私がそう答えると、殿下の唇は私の額に一度下り、それから耳元に移動しました。
「セレナ、私は本気で君がほしいらしい」
私はせっかく殿下の治癒で散った熱を、今度は顔中に集めてしまいました。
「ああ、かわいいな、セレナ。このまま押し倒してしまいたいところだけど、時間がないんだ。さっきからこの忌々しい通信具が振動している」
私は殿下の言葉を冗談として受け流すことができませんでした。そして決して認めてはならない感情が、心の奥の奥の奥に生まれてしまったことに狼狽して、慌てて心の扉を閉じたのに、殿下がこじ開けようとするのです。
「セレナだけではないんだよ」
真剣な殿下の瞳の青から目をそらせなくて困ってしまいます。
「私だって驚いているんだ。面倒な女性には手を出さない主義なのに」
面倒。どうして胸がちくりとしたのでしょうか。
「だってそうだろう? セレナは大人のおつき合いをお願いできるようなタイプじゃない。伯爵家長男の婚約者がいて、あのレジナルドの妹で、あのレオポルドの腹心で、叔母上のお気に入り。よほどの覚悟がなければ手が出せない」
そうです。私にはラウルがいます。悪魔の腹心ではありませんが、たしかに面倒な部類に入るでしょう。
「セレナも覚悟して?」
殿下の顔が近づいてきます。
「私はもう覚悟を決めたのだから」
殿下の唇を額に感じます。もう治癒魔法は必要ないのに。キスされるとわかっていたのに、どうして体が動かなかったのでしょう。避けなければいけなかったのに。私にはラウルがいるのに。
「まったく、しつこいね」
私が戸惑っているうちに、殿下はベッドから立ち上がられ、通信具に向かって話し始められました。
「それほど待たせたわけではないだろう、レオポルド。私にそんな偉そうな口をきくなんてどういうつもりかな。今すぐ、アン嬢の寝顔を見に行こうか?」
殿下がため息を吐かれます。
「まったく、レオは気が短いんだから」
悪魔にお嬢様の絡んだ冗談は通じないのですよ、殿下。
「世の中の男すべてがアン嬢に惹かれるとでも思っているのかな、レオは」
悪魔は自分以外の男性がお嬢様に惹かれるどころか、お嬢様の視界に入ることすら許せないような、狭量な男なのですよ、殿下。
「アン嬢など、ただの顔のきれいな人形にしか見えないというのに」
カッチーン。
「殿下、失礼ながら申し上げます。王太子殿下ともあろうお方がお嬢様の本質にお気づきでないとは少々見る目がないと言わざるを得ませんね。お嬢様は大変お美しいですが、お嬢様の魅力は外見だけではございません。心根はまっすぐ清らか、性格は温和で思いやりにあふれて、その広いお心で悪魔を婚約者として認めていらっしゃる。さらに、悪魔にからかわれるとすぐに真っ赤になってしまわれるような初心で、純真無垢な至高の存在なのです」
「あ、あ、あっはははははは……」
「!! 殿下っ!!」
私の抗議に、殿下はお腹を抱えて笑ってしまわれます。私のお嬢様愛のどこに面白い点があったというのでしょうか。
「あっははははは……ははははは…………」
殿下は笑い上戸でいらっしゃるようです。目尻に涙まで見えます。なんていうか、すべてが馬鹿らしくなるようなそんな笑いです。
「ひっ、ふふ」
「殿下?」
「…………久々」
「何がでございますか?」
「本気で笑ったのがだよ」
微笑みの王太子殿下が何をおっしゃっているのでしょう。いつだって微笑んでいて、今日だって何度も笑顔を拝見しましたよ。
「王子なんてね、笑うのも仕事なんだよ。つまらなくても腹立たしくても、いつも微笑みを崩さず、相手に応じて笑みを深めたり薄めたり、女性がものほしそうに見上げてくれば意味ありげに笑い、相手が笑ってほしそうなときには声を上げて笑う。そうしているうちに本当に笑うことがほとんどなくなった。こんなふうに腹がよじれるほど笑うなんて、成人して初めてかもしれない」
悪魔が魔力制御のために感情を抑えつけてきたように、殿下もまた感情制御を義務づけられてきたのかもしれません。悪魔はお嬢様に出会って魔力制御できるようになり、感情を取り戻しましたが、殿下は将来王位を降りられるまで、そういう平穏を手に入れることができないのでしょうか。
「でも今日は少しだけ職務放棄してしまったかな、けっこう素で笑ったしね。セレナと一緒にいると、感情通りに生きてみたくなる。セレナの前で王子の仮面を被りたくない。私は自分で思っている以上に愚かなのかもしれないな」
殿下が淋しそうに見えます。王族とは孤独なのかもしれません。
「ところで、セレナ」
「はい」
「レオポルドのことを悪魔と呼んでいるのかい?」
「っ!!!」
「さっきアン嬢のことでむきになっているときに、言ってたよ」
何という失態。失言。口は災いの元です。
「口止め料をもらおうかな」
殿下の指が私の唇をつーっとたどります。
「殿下!! 面倒な女になど、かまわないでくださいませ!!」
大声になってしまったのは殿下に流されてしまいそうな自分に気づいているからです。私は殿下の嫌いなタイプかもしれません。婚約者がいるのに、ほかの男性に揺れてしまうような、頭のゆるい女。
「セレナ」
「はい」
抗議の意味をこめて、殿下に冷ややかな目を向けます。それなのに殿下は「よかった」と言って、私の頬を撫で、さらに頬に手をそえたままで目を覗きこんできます。私の瞳の中にはどんな感情が映っているのでしょうか。
「怒る元気も出てきたし、これだけ目に力が戻ればもう大丈夫だね。これで安心して行けるよ」
どうして私は殿下の言葉の奥を読もうとしてしまうのでしょうか。殿下はただ私の身を案じてくれて、それで元気になってよかったと言ってくれただけです。それなのに私の心は勝手に深読みして、勝手に気落ちしているのです。
殿下の言動は私を元気づけるためだったのですか? 私をかわいいと言われたのも、私をほしいと言われたのも、甘やかな声も、真剣な瞳も、すべて私を元気づけるための狂言だったのでしょうか。どうして心が痛むのでしょう。今日という日は自分の心の位置を何度確認させられるのでしょう。
「また通信だよ」
殿下の手が離れてしまいます。
淋しく感じてしまうのは仕方のないことですよね。あんなに怖い思いをしたのですから、一人になるのが心細くて当たり前ですよね。
「レジナルド、今からレオを回収して戻るから……そうそれでいいよ」
殿下が通信具で兄様に指示を出されました。会場に早く戻られないとならないのでしょう。まだ成人前のギルバート殿下では会場の混乱を収めるのは困難でしょうし。
「セレナ」
「……はい」
殿下が私を見つめます。殿下のその微笑みには何か意味がありますか?
「アン嬢はレオの睡眠魔法で寝ているし、そばには伯爵夫妻がついている。だからセレナはもう少し休んでいなさい。少し眠って、目が覚めたら汗を流して、それからアン嬢の部屋へ行きなさい。いいね、おやすみ」
殿下の唇が私の唇を掠めました。途端にまぶたが下り、思考にもやがかかってきます。睡眠魔法なのでしょう。
キスではなくただの魔法、キスではなくただの魔法、キスではなくただの魔法……。
そう呪文のように頭の中でくり返していることの真意に、私自身気づくわけにはいきません。




