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殿下から離れて、兄様にひっつくようにしてホールを見下ろしています。涙はもう乾きました。誰かに見られていたかもしれませんが、確認する勇気などありません。
三曲目が終わりました。今度こそ、お嬢様と悪魔のダンスと思っていると、通信具が震えました。誰からの通信かわからないまま、慌てて魔力を流します。複数通信は通信相手が応答時にはわからないという欠点があったのですね。
「全員、返事をしないで聞け」
悪魔の声です。全員とは誰でしょう。
「ギルバート、アニーをエスコートして、私のところへ来い」
ギルバート殿下へも指示を出しているということは、悪魔は二つの通信具を使っているということですね。
「セレナ、泣いてる場合じゃない。セドリックに甘えているふりをして、レジナルドのとなりまで、セドリックを引っ張ってくるんだ。二人は今だけ恋人同士だ、いいな」
何もよくありませんけど。泣いていたのを見られていたなんて、一生の不覚です。
「セレナ、急げ。お前が遅れるとアニーが危ない目に遭う」
よくわかりませんが、緊急事態なのですね。女は度胸です。精一杯、頭の悪い勘違い女を演じてみせましょう。
セドリック殿下のそばへ歩み寄ります。妖艶な微笑みで、といいたいところですが、愛想笑いが関の山でした。
「確認できただけでも虫は七匹。うち一匹はセドリックの腹の中だ」
私が動いている間も悪魔の指示は続いています。虫とは何でしょう。
「セドリックの真裏のバルコニーにいる四匹の虫が侵入寸前だ」
殿下はとろけるような笑みで、私に向かって両手を広げて待っていらっしゃいます。私と腹黒殿下には演技力に格段の差があるようです。
「セレナ、早く、レジナルドのところへ」
私はセドリック殿下の腕へ飛びこみ、それから殿下の腕を取って立たせます。そして口パクで「こっちに」と言いながら兄様の元へ殿下を引っ張ります。
「セドリック、セレナを後ろから抱いて備えろ」
私は兄様の横で、殿下に後ろからハグされています。胸がドキドキするのは不可抗力です。浮気ではないですよ、ラウル。そして誰も見ていませんように。
「虫が窓を割って侵入次第、セドリックはセレナを抱いて飛び下りろ。レジナルドはセドリックの護衛を頼む。セドリックが無事下りたのを確認次第、お前も下りてこい」
何が起こっているのでしょうか。虫が侵入したら、飛び下りるって、どういうことですか? そしてどこにですか? ここは二階席ですが、普通の家屋の三階以上の高さがありますよ。
「アニー、疲れただろう? 少し休憩しよう。私の腕の中においで」
悪魔、通信中ですよ。聞こえていますよ。
「そろそろだ」
四曲目が流れ始め、通信は切られました。お嬢様は悪魔の腕の中です。普段は腹立たしい光景も、緊急時にはとても心強いです。
「ガッシャ――――――――――――ン」
ガラスの割れる大きな音、そして風圧。
驚いているうちに、私はセドリック殿下に横抱きにされ、空中にいます。音楽がとまり、騒然とする中、悪魔の声がホール内に響き渡ります。
「全員、騒がずにその場に座れ。早くしろ!!!」
ホールにいた学園生や給仕たちが、悪魔の威圧を受けて、一斉に座りこみます。
「セレナ、大丈夫だよ」
殿下が耳元で甘い声で囁きます。それにドキマギしているうちに、殿下が着地しました。もう目の前には悪魔とお嬢様がいます。どういうことなのでしょうか、説明もないままに悪魔の指示が飛びます。
「アニー、セレナと一緒にいるんだ」
私がセドリック殿下の腕から下ろされると同時に、悪魔の腕からお嬢様が離されます。
「私たちが刺客などに後れを取るわけがない。安心していい」
セドリック殿下が小声で囁かれて、悪魔のそばへ向かわれました。虫とは刺客のことだったのですね。そんな気はしていたのですが、実際にそうだと言われると、途端に怖くなってきます。
「レオ様」
お嬢様は不安げに悪魔を見上げます。悪魔から離れたくないようです。
「アニー、大丈夫だ。すぐに迎えに来るから、セレナと一緒に待っていて」
悪魔がお嬢様の額にキスを落とし、私へお嬢様を預けます。
「セレナ、アニーを胸に抱いてしゃがめ。結界を張るから、ギルバートと三人、じっとしていろ」
お嬢様を夢中で抱き寄せてしゃがむと、悪魔の結界が張られたのがわかります。今までにないほどの強固な結界です。
「セレナ、アニーに何も見せるな。胸に抱け。ギルバート、音は遮断していないから、癒しの歌を頼む」
私はお嬢様の視界を塞ぐように抱きなおします。震えをとめられませんが、私が怯えていると、お嬢様が不安になってしまうと、自分を叱咤し、お嬢様を強く抱きます。
「お嬢様、レオポルド様はお強いです。すぐに賊を捕まえてくださいます」
自分に言い聞かせるように、お嬢様へ話しかけます。
「レオポルド様がお嬢様を危険な目に遭わせるはずがありません」
結界の中でギルバート殿下が歌い始めます。魔法歌のようです。歌が波立つ心にゆっくりと作用して、震えが弱まり、焦燥が遠のいていくのがわかります。
そこへ兄様が、捕縛した黒づくめの刺客二人を連れて下りてきました。
「四人捕獲いたしました。残り二人は拘束具をつけた上、エリーゼ様に監視をお願いしてまいりました」
兄様がセドリック殿下と悪魔に向かって報告します。ギルバート殿下の歌のおかげか、あまりにも非日常すぎて感情がついてこないだけなのか、私は意外と冷静なようです。周囲を見る余裕も生まれました。すると、驚いたことに会場中の人間が眠っています。二階席もほとんどが眠っているように見えます。例外は護衛騎士と一部の父兄だけです。
「お嬢様」
小声で呼びかけてみましたが、お嬢様からの返事はありません。不安になって、お嬢様を胸から離して見ると、どうやらお嬢様も眠られているようです。こんな異常事態なのに、お嬢様の天使の寝顔に顔がにやけてしまい、自分のあまりの危機感のなさにゾッとしてしまいます。
兄様が窓から侵入した刺客は全員捕まえたはずなのに、二階席から氷の槍が降ってきました。残党でしょうか。旦那様たちはご無事なのでしょうか。
鋭く尖った氷の槍が何本も降ってきます。すべては結界に吸いこまれるかのように消失していくのですが、それでも怖いものは怖いです。見ているのも怖いのですが、攻撃自体の音なのか、結界が攻撃を呑みこむ音なのか、やむことなく「キイン、キイン」という音がしているので、目をつむると余計に恐ろしくて、結局私は見ているしかないのです。 どうやら攻撃魔法は私たちへ向かってきているというよりも、セドリック殿下を狙っているようです。セドリック殿下の前には悪魔が建てた防御壁があり、攻撃魔法はすべて無効化されています。
二階席へ目を凝らすと、攻撃を放っているのは、セドリック殿下の護衛騎士でした。距離があると攻撃が届かないと思ったのか、二階席からこちらへ飛んできます。
「レックス!!」
セドリック殿下が叫ばれ、そのあと、どさりと、魔法騎士が落ちてきました。魔法で飛んでいたはずの騎士が、急に落下したのです。何が起きたのでしょう。落ちた騎士はどうやら怪我をしたようで、うめき声をあげています。その騎士は兄様によって捕縛されました。
「うう、どういうつもりだ!! 私は王太子殿下直属の護衛騎士だぞ!!」
セドリック殿下がその騎士の前まで歩み寄ります。
「どうしたレックス?」
「な、なぜですか?」
「それは私のセリフだよね」
完璧に整った顔というのは、無表情だと、あまりにも美しく、そして冷たく感じるものです。セドリック殿下がレックスという騎士を見つめるまなざしはどこまでも冷酷です。
「何か、何か、誤解があるようです。この魔法具を外してください。飛んでいる途中で、魔法が使えなくなったのです。殿下、治癒魔法をお願いいたします。足が折れています」
「それはできないんだよ、レックス」
「どうしてですか、殿下!!」
「私は自分を攻撃してくるような人間にまで情けをかけるような、お人よしではないからさ」
「誤解です!! 殿下!! 殿下!!」
騎士レックスが大声を上げています。
「うるさい虫は黙ってろ」
悪魔が騎士レックスの声を封じたようです。何が起こっているのでしょうか、まったくわかりません。
そして騎士レックスが捕縛されたというのに、攻撃魔法が再び襲いかかってきました。今度はセドリック殿下にではなく、私たちに向かって攻撃が放たれているようです。会場の入り口あたりから、氷の剣、光の針が猛スピードで向かってきて、悪魔の結界に呑みこまれます。悪魔の結界があるとわかってはいても攻撃を受けつづけることに身体も心も疲弊していきます。気を抜くと弱まってしまう腕の力をこめて、お嬢様をギュッと抱きしめなおします。そして、できるだけ迫りくる攻撃ではなく、無心で歌いつづけていらっしゃる殿下の歌に心を向けます。
氷と光の攻撃が効かないと判断したのか、今度は燃え盛る炎の塊が襲ってきます。炎は氷の比ではない恐怖です。それはきっと原始の記憶なのでしょう。本能が火炎魔法を恐れると授業で習いました。
炎といえば、昔はこの国にも火を噴くドラゴンがいたそうです。ドラゴンの化石から、羽があったこと、火を噴いていたこと、草食であったことまでがわかるのだと聞きました。そんなどうでもいいようなことに思いを巡らせているのは、何かを考えつづけていないと、恐怖に支配されてしまいそうだからです。殿下の癒しの歌も命の危機の前では弱いのです。
腕の中のお嬢様をもう一度抱きなおします。お嬢様の胸が規則正しく上下しているのがわかります。どうかお嬢様、このまま何も気づかれずに、眠りつづけてくださいませ。




