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一言謝ったくらいでは兄様に許してもらえなかったようです。兄様のお顔が説教モードです。
「セレナ、レオポルド様は別にラウルとキスするなとおっしゃっているわけではないだろう? アン様に見られる可能性のある場所を避けるだけだ。簡単だろう?」
兄様の言葉には素直に頷けます。別に私は露出狂ではありませんし。
「レオポルド様。セレナだって、アン様に見られるとは思ってもいなかったのですよ。実際にキスは見られていませんし」
そうですよね。キスしたのはお嬢様が入学式に向かわれてすぐのことです。ということは何らかの形で私たちを監視していたということですか?
「セレナ。レオポルド様はお前を盗撮するほど、お前に興味はない。ただ式から戻られたときに、殿下の護衛騎士たちが話していたのを耳にされただけだ」
兄様は私の心が読めるのでしょうか。そしてラウルの同僚に見られていたのですね。恥ずかしいです。今後気をつけます。
「それにレオポルド様。アン様はそこまで子供ではありません。親愛のキスくらい、目にする機会はいくらでもあります。それくらいで目くじらを立てるべきではないのでは?」
「しかし」
「レオポルド様」
「なんだ」
「本日は早朝からの勤務だったので、少し疲れました。少々休憩をいただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ」
兄様が急に休憩を所望されました。私と悪魔の醜い争いが兄様を疲弊させてしまったのでしょうか。
「ではレオポルド様、今から私とレオポルド様は従者と主人ではなく、幼なじみの兄貴分と弟分とういうことでよろしいですね?」
「……ああ」
心なしか悪魔の顔色が悪いような気がします。
「レオポルド」
「……はい」
兄様、悪魔を呼び捨てです。
「疲れたときには甘いものだよね」
悪魔が消えました。
「に、兄様?」
「ん?」
「これはどういう?」
「レオポルドはお茶の準備をしに行ったんだよ」
「どうして?」
「んー。主従逆転ごっこ中だからかな」
ごっこ遊びなのですか、兄様。悪魔とお遊びとか、それには命の危険を伴いませんか?
「レオポルドが戻ったら、ちょっとセレナには聞かせたくない類の話をするから、私室に戻ってたら?」
え? 私追い出されるのでしょうか?
「兄様」
「ん」
「私もここにいてはダメでしょうか?」
それほどかわいくはないですが、たった一人の妹のお願いです。悪魔が兄様の下僕化している決定的瞬間を見逃すことなど私にはできないのです。
「んー。別にいいけど、逃げたくなったら、すぐに逃げるんだよ」
兄様の笑顔が黒いです。逃げたくなるようなことになるのでしょうか。考えているうちに悪魔が戻りました。コーヒーポットとカップ、それから私の大好物の高級チョコレートの箱が見えます。兄様がコーヒーをカップに注ぎ入れ、それからチョコレートを三粒立てつづけに口に放りこみました。もったいないです、兄様。そのチョコレートは三十粒一万リニアもする高級品なのですよ。一万リニアといえば、私の日給二日分。大事に、大事に食べないと、チョコレートの神様が怒りますよ。私なんて、これと同じチョコレートを私室に隠してあるのですよ。仕事終わりのご褒美に毎日一粒ずつ食べようと思って。一粒ずつすべて違うお味のこのチョコレートを毎晩の楽しみとして、悪魔とのつらい接触を耐えていこうという私の決意の味なのですよ。
「ありがとう、レオポルド。おいしいチョコレートだ。君も食べたら?」
兄様の微笑みに、悪魔の口元がひくついています。
「兄様、私もいただいても?」
どうしても食べたいのです。だって好きなのですもの。
「ああ、セレナもどうぞ」
兄様がさらにチョコレートを二粒口に入れてから、私に箱をさし出してきました。兄様、お願いですからもっと味わって食べてください。
「さあ、レオポルド。久しぶりに幼なじみと話でもしよう」
「…………」
悪魔がタジタジです。面白いです。貴重です。そしてチョコレートがおいしいです。イチゴのチョコレートでした。当たりです。といいましても、このチョコレートのよいところは外れがないというところなのですが。
「セレナには人前でいちゃつくなと言っていたが、お前だって、少し前までは、アン様とところかまわず、いちゃついていたものだよね?」
そうです! 兄様の言う通りです。そして兄様、悪魔をついにお前呼びです。
「今のように始終一緒にいたわけでもない俺でも、お前のキスシーンを三桁は見たことがあるよ」
誇張なしです。私も多分同じくらい見ました。特にギルバート殿下がいらっしゃるときなどは、ちゅっちゅか、ちゅっちゅか、しきりにしていたものです。
「額や頬への親愛のキスはもちろん。唇にも堂々としていたよね、レオポルド?」
「子供の頃の話だ」
「そう、子供の頃の話だね。お前はあるときから、急にアン様と距離を取るようになった。そのきっかけを俺が気づいていないとでも?」
「…………」
「精通だろ?」
「……」
「お前は十四歳になったあたりで、男になった。それまでアン様へ向けていた純粋な愛情に、劣情が混じるようになったんだ。その結果、アン様との接触で、赤面、動悸、息切れ、諸々の症状を引き起こすようになった」
よく真っ赤になって活動休止していますものね。
「そうした動揺を隠すために、お前はアン様と距離を取るようになった。ばれたくない気持ちはわかるよ。だって、お前の赤面や発汗は、お前の下半身に直結しているのだからね。ただ最初は仕方のないことだと思ったよ。誰にだって思春期はある。もちろん俺にだってあった。しかしそろそろタイムリミットだよ、レオポルド。もういい加減アン様との距離をつめていく時期にさしかかっているんだよ」
悪魔に思春期という言葉が似合いすぎます。兄様の思春期には気がつかなかったのは、きっと思春期特有の恥ずかしいあれこれが少なかったのでしょうね。そして何のタイムリミットなのでしょうか。
「いいか、お前は自分を特別に不幸でかわいそうな人間だと思い、アン様をそんな自分を救ってくれる唯一として、神聖視すらしている」
「アニーは特別だ」
「そう、アン様はお前にとっては特別だ。しかし誰にだって特別心惹かれる相手はいるものだ。そういう意味で、お前はただの男で、アン様はただの女なんだ」
「違う。アニーはほかの女とは全然違う」
「だから、それはお前にとってはだ。俺にとってのリアがそうだったように」
リア様というのは兄様の一つ年上の元婚約者のオフィーリア様のことです。兄様が高等学園を卒業したら結婚するはずでしたが、卒業の半年前に流行り病で儚くなってしまわれた方です。
「お前はたしかにすごい魔力を持つ魔法使いで、アン様は類まれな美少女だ。しかし、同時にただの男と女なんだよ。まずはそれを理解して、認めるところから始めろ」
「…………」
「お前はただの臆病でかっこつけの普通の男なんだ。アン様に自分の劣情を悟られたくなくて、過剰に怯えているヘタレ。いいか、誰だって、最初は戸惑うものなんだよ。お前だけじゃない。俺だって、リアに出会ったときには心が震えて、挙動不審になったし、リアと初めて手をつなぐときは緊張で手汗がひどかった。初めてリアの頬にキスをするときは、嫌われたらどうしようかと不安で仕方なかったし、ファーストキスのときには焦って前歯をぶち当てた。リアに関するすべてのことに、過剰に反応し、過敏になり、不安になり、焦燥と羞恥につき纏われた。それが恋する男の普通の状態なんだ。お前だけが特別なわけじゃない」
兄様の赤裸々な告白に悪魔は真剣に耳を傾けています。私は席を外すべきなのでしょうが、なぜかソファーに体が縫いとめられたように動きません。
「しかし場数を踏むことで、男は女に慣れていく。初めは手をつなぐのすらやっとの思いだったのが、腰を抱くようになり、抱きしめられるようになるし、抱けるようになる。お前だって子供時代、最初はアン様と見つめ合うだけでも赤面していたのに、そのうち平気な顔でキスできるようになっただろう? 大人になったお前も子供の頃のように、少しずつ、アン様へ慣れていかなければならないんだよ、レオポルド。恥ずかしいのはアン様も一緒だ。かっこ悪いところくらい見せられないで、結婚なんてできないよ。成功も失敗も一緒にしていけばいい。キスもセックスも一人じゃできないんだから」
「…………無理だ。アニーのことを考えるだけで熱くなる」
悪魔の本心でしょう。兄様は困った子を諭すようなやさしい微笑みを浮かべられました。
「誰だってそうなんだよ。俺だって、リアのことを考えただけで、下半身が反応する時期があった」
「そういう意味じゃない!!」
「レオポルド。お前は俺たちに対してもかっこつけすぎだ。若い男が性欲に振り回され、悩まされるのは当たり前のことだ。誰もが通る道。隠すようなことじゃない。お前は多分、感情制御の弊害で、そんなかっこつけになっちゃったんだろうね。感情に行動を左右されるのを恥辱だと思っているだろう? しかしそれは恥じゃないんだよ。極めて普通のことだ」
「しかし、私は感情を完璧に制御しなければ、魔力があふれ出てしまう」
悪魔が苦しそうに絞り出します。
「そうだね。でも実際はアン様と会っているレオポルドは、ちっとも感情制御できていないよね。魔力だって、よく滲み出ているし。すぐに自分で回収してるから、周囲が気づいていないとでも思ってた? 甘いよ、レオポルド。お前のアン様への感情はダダもれなの。表面上、気取って隠したところで、笑止千万」
「なっ!」
「でも気にすることないよ。アン様と向き合っているレオポルドが出す魔力はあったかいものだよ。周りを幸せにするような種類の聖の魔力。消すのがもったいないくらい。ちょっと過剰すぎると胸やけ起こすけどね。つまり、アン様への感情は隠す必要ないってこと」
「しかし」
「あのな、俺たち魔力持ちがコントロールすべきなのは激しい負の感情なわけ。小さいうちは感情の正負が一体になっていることが多いから、すべての感情を閉じるように訓練されただけなの。家庭教師から習わなかったのか?」
「習わなかった」
「マジかよ。よく考えてみろ。正の感情もコントロールしまくってたら、魔力持ちは一生恋愛もできない。にしても、本当に知らなかったわけ? 家庭教師の怠慢だな。多分、お前のうちの場合、みんな魔力持ちだから、家庭ですでに教わってると思ってたんだろ」
「はあ」
悪魔が脱力しました。きっと、今まであふれる愛情を抑えることに苦心してきていたのでしょう。
「まあ、多分、お前も悪かったんだよ。子供の頃のアン様への激しいスキンシップと愛情表現。あれを見て、まさか正の感情を閉じようとしているとは誰も思わないだろうし」
兄様、正論すぎます。悪魔、ぐうの音も出ません。
「アン様ももう十四だ。十六の社交界デビューなんて、すぐに来る。そしてそのあとはすぐ卒業で、そしたらすぐにお前との結婚だ。二年なんてあっという間にすぎるし、結婚したら初夜が来る」
ああ。考えたくないです。お嬢様の純潔が悪魔に散らされるなんて、この世の終わりと同義ではありませんか。
「今のままの状態で、その日を迎えてみろ、アン様は壊れるぞ。比喩的な壊れるではなく、物理的に破壊される。お前の魔力で」
「アニーを傷つけることなどしない」
「それは一生アン様を抱かないって意味か?」
「……違う」
「俺は断言できるよ。お前がこのまま何の努力もせずに初夜を迎えたら、アン様をぶっ壊すって」
「そんなこと、しない」
「お前の意志なんて関係ないんだよ。魔力の暴走は俺なんかよりもよく知っているだろ。俺がリアを初めて抱いたのは十六のときだ」
兄様の体験を私は聞いていてもよいのでしょうか。
私の困惑と動揺が下にいるお嬢様に気づかれませんようにと、そっと心の中で祈りました。




