最終話.ストロベリー侯爵と、スミレの花。
ラヴィーナさんには、あの後、シャロットと一緒に手紙を書いた。
『シャルは、パパとくらすね。でもママだいすき』
シャロットが、ぷるぷる手を震わせながら、ひらがなで一生懸命に書いたその一文が、私はたまらなくて、泣きそうになるのを堪えながら見てた。
どうしてイシドール様と暮らすことを選んだのか。
シャロットがどれほど迷って、どれほど悩んで、出した答えだったのか。
その経緯を伝えなければいけないと、私は自分の手で手紙を綴った。
そして──
『私は、シャロットのもう一人の母になります』
そう結んで、最後に、私の名を添えた。
手紙を封筒に入れて、そっと封をする。
私たちの気持ちをすべて託した便りを、ラヴィーナさん宛に送った。
* * *
中庭に面した部屋。
やわらかな日差しが入る窓辺で、クラリーチェが静かに座っていた。
こうして陽の当たる場所に、彼女がいる。それだけで胸がじんわりする。
前みたいに、どこを見ているかわからない顔じゃない。
今はちゃんと、しっかりと景色を見ている。
私はそっと彼女に近づいて、できるだけやさしく声をかけた。
「調子、どう?」
クラリーチェは窓の外を見つめたまま、小さく笑った。
「……だいぶ慣れてきました。まだ……外に出るのは、ちょっと怖いですけど」
その言葉に、思わず微笑んでしまう。
よかった。本当によかった。
少しずつでも、前に進んでくれて。
「無理しなくていいのよ。ゆっくりで、大丈夫だから」
そう言ったとたん、遠くから小さな足音がパタパタと近づいてくる。あの足音……って思った瞬間、案の定。
「クラリーチェ!」
勢いよく扉が開いて、シャロットが元気に顔をのぞかせた。
クラリーチェの姿を見たシャロットは、ぱっと顔を輝かせて、そのまままっすぐ駆け寄ってくる。
小さな手でクラリーチェの膝にぽんと触れて、にっこり笑った。
「きょうもいた! よかったぁ! もう、いきなりきえちゃ、ダメなんだからね?」
そのまっすぐ過ぎる言い方が、本当にシャロットなのよね。
だけどそこが、本当に愛おしいの。
クラリーチェはその言葉にふっと目を伏せて、なんだか照れたような笑みを浮かべた。
「……はい、シャロットお嬢様……」
「ふふー!」
満面の笑顔で笑うシャロット。
本当に太陽なのよ。
ただそこにいるだけで、周りの空気がパッと明るくなる。
クラリーチェは壊れてしまう前、罪滅ぼしの気持ちもあって、シャロットと仲良くしてたって聞いた。
シャロットが言ってた“いなくなったメイドさん”って、クラリーチェのことだったんだ。
クラリーチェが地下室から出てきて、シャロットと再開した時は、本当に喜んで……でもその姿に心配もして。
今では毎日、クラリーチェを探すのが日課になってる。
そしてシャロットと触れ合うたび、彼女はどんどん元気になっていくのが見てとれた。
「クラリーチェいなくなったときねー、シャル、けっこんしたのかとおもってたのよ」
「私にそんな相手なんて……」
困った顔を見せるクラリーチェを気にもせず、シャロットは続ける。
「また会えてうれしいの! げんきになったら、またシャルとあそぶのよ!」
そんなことを屈託なく言ってのける彼女に、クラリーチェは優しくうなずく。
「はい、必ず……シャロット様」
……ほんと。こうして笑ってる姿を見てると、信じられなくなる。
地下から聞こえた声が、まるで夢だったみたい。
と、そのとき。
控えめなノックの音。扉が開いて、家礼のエミリオが姿を現した。
「……クラリーチェさん。今日はもう、このくらいにしておきましょう」
やわらかい声でそう言うエミリオに、クラリーチェは素直にうなずく。
「ええ。ありがとう、エミリオさん」
柔らかく返したクラリーチェの声に、エミリオはわずかに安堵の色を見せた。
地下から出てきた時から、ずっとクラリーチェに寄り添っているエミリオ。
彼女の回復を、誰よりも気にかけてるのはこの人なんだと思う。
地下でも彼女の様子を誰よりも見にいっていたと、イシドール様が言っていたし。
今もエミリオは、優しい視線を彼女に向けている。
そんなふたりの様子を、シャロットはきょとんとしながら見上げて、私に振り向いた。
「クラリーチェとエミリオって、なかよしさんなの?」
やっぱり、そう思うわよね?
少なくとも、エミリオの方は。でもクラリーチェは?
一瞬だけクラリーチェの方を窺うと、彼女はほんのりと頬を染めながら、視線を伏せていて。
あら。これは確かに、そういう気配があるかも。
なんだかにっこりしてしまった。
「ふふ、そうね。仲良くなれるって素敵なことよ」
あくまでさりげなく、やわらかく答えると、シャロットは嬉しそうに頷く。
エミリオは私たちの話を聞いて、そっと懐中時計を確認して微笑む。
「シャロット様は、家庭教師が来られるお時間では?」
エミリオが穏やかな声で問いかけると、シャロットは「えーっ」って。
だけど、小さく口をとがらせながらも、ちゃんと切り替えしてる。シャロット、本当に偉い。
「じゃあまたくるね、クラリーチェ!」
ぱっと駆け出しながら、エミリオにも手を振る。
「エミリオも、ばいばーい!」
「はい、お嬢様。お勉強がんばってください」
にこやかに答える彼に満足したように笑って、シャロットは軽やかに走っていく。
静けさが戻ると、エミリオがクラリーチェに歩み寄った。
彼女はまだ、体が思うように動かないみたいで。
エミリオはそんなクラリーチェの前で黙って膝をつくと、ごく自然に彼女の腕を取った。
迷いもためらいもない、だけど、どこまでも丁寧でやさしい動作。
……きゃ。どうしよ、ニマニマしちゃいそう!
「……お願いします」
クラリーチェの声は小さくて、動けない自分が悔しそうで──でも、信頼こもった言葉が、聞いていて心地いい。
「はい。無理せず、ゆっくりで」
そう答えてエミリオは彼女を支えると、ゆっくりと立ち上がらせた。
一歩ずつ、確かめるように足を運ぶクラリーチェ。
その隣ではエミリオが寄り添っている。
なんだか……愛がだだ漏れじゃない?
ちょっと見ていて恥ずかしいんだけど。
エミリオは、地下にいた彼女の様子を見ていたって聞いたけど……
ううん、きっとクラリーチェがそうなる前から。
ふたりの間に流れる、言葉にならない空気がやさしくて、胸の奥があたたかくなる。
私はそっと微笑んで、クラリーチェに声をかけた。
「ねえ、クラリーチェ。今度、一緒にお茶でもしましょう。気分転換に、気持ちのいい日を選んで」
クラリーチェは、驚いたように一瞬目を丸くして、それから嬉しそうに頷いた。
「……はい、ぜひ」
「そのときは、エミリオ。またお願いね?」
二人に視線を向けながら、なるべくさりげなく言った、つもり。
エミリオは特に驚く様子も見せず、ほんの少しだけ表情をゆるめて──それから、静かに頷いた。
「承知しました。いつでも、お呼びください」
エミリオの調子は変わらないけど、ちょっとやわらかい気がするのは……私だけ?
でもそれを聞いたクラリーチェの頬が、ふわりと色づいていくのが、なんとなく目に入った。
……あら。まぁまぁ。
嬉しいわよね、いつでも駆けつけるって言ってくれたようなものだもの。
ニマッて笑いたい。でも、がんばってこらえた私、偉い。
エミリオはクラリーチェを優しく支えたまま、静かに目を伏せて、少しだけ微笑んでいて。
見ている私の胸まで、あったかくなってしまう。
私はもう何も言わず、目を細めて。
二人が去っていく後ろ姿を見つめていた。
***
ラヴィーナさんに手紙を出してから、数日後。
「おかあさまーっ!」
シャロットがぱたぱた駆けてきて、そのまま私に飛びついた。
「ママからおへんじ、とどいたの!」
満面の笑みで、声もわくわく弾けてる。
私は「ほんと?」って笑って、シャロットの手を取った。ふたりで一緒に、封筒をそっと開ける。
中には、ラヴィーナさんの美しくも優しい字で書かれた手紙が入ってた。
『シャルへ。
離れていても、あなたのことをずーっと愛してる。
どこにいてもシャルが幸せでいてくれたら、それだけで、ママは嬉しいの。
いつでも遊びにきてね。
だいすきなシャルへ。ママより』
シャロットは声に出して読みながら、目をきらきらさせて顔を上げる。
「ママ、シャルのこと、ずっとだいすきって!」
「ふふ、そうね。シャロットが頑張って書いたお手紙、ちゃんと届いたのよ」
私はそっと彼女の頭をなでた。ふわふわの髪が指に気持ちいい。
「ねぇ、シャロット。今度、会いに行ってみようか。ママのところに」
「──ほんとう!? いく! いきたーい!」
目をまんまるにして、パッと花が咲いたみたいに笑う。
シャロットの天使っぷりは変わらない。
「シャルねぇ、ママにおてがみかいて、おみやげもって……それでね、それでね──!」
もううれしさがあふれて止まらないって感じで、シャロットはぴょんぴょん跳ねながらしゃべり続けた。
私はただ、黙ってその姿を見つめる。
なんだろう。
ありがとうって、唐突にそう思った。
誰に、とはうまく言えないけど──この幸せをつないでくれた、すべてに。
可愛い娘を抱きしめられる、この時間に──。
***
夜の部屋に、ランプの淡い灯りがゆれていた。
シャロットにお母様と呼ばれるようになってから、イシドール様と夜に二人きりになるのは、これが初めて。
イシドール様が仕事に追われていたり、シャロットが一緒に寝てって言ったりして、夜の時間を取れなかったから。
でも今夜は、ようやく……私たちだけの、時間。
私の肩に、イシドール様の手がそっと置かれた。
それだけで、ピクッとしちゃう。
「緊張しているな」
「……少し、はい」
「本当に少しか?」
ふっと笑うイシドール様。
もう、意地悪だ。
「本当は、めちゃくちゃ、緊張してます……」
私の言葉に、イシドール様は優しく目を細めた。
「大丈夫だ。君のことは大事にする。……優しく、する」
するって……言葉がもう、生々しくて。
どぎまぎしている私へと、ゆっくりと顔が近づいてくる。
キス、されるんだ。
もう止める必要なんてどこにもない。
ただもう、心臓が破裂しそうで、ぎゅっと目を瞑った。
「レディア……」
イシドール様の甘い声が聞こえると、ふっと力が抜けて──
その瞬間、唇が、触れた。
優しく、ためらいがちで、それでも確かに私を想ってくれるキス。
それが、こんなにも胸を熱くするなんて、知らなかった。
イシドール様の手が私の頬を包んでる。
そのまま、そっと──口づけが、深くなった。
感じるのは、彼の体温と、唇の温もりだけ。
離れたくない。
ずっとこうしていたい。
初めてのキスなのに、私はもう、虜になってる。
まだして欲しいのに、唇が離れていく。
そっと目を開けると、イシドール様は目を細めて私を見つめていた。
「ようやく、キスができたな」
「……はい」
感慨無量って言うのかな。
私は、そしてきっとイシドール様も、胸がいっぱいになって。
何だか、涙がこぼれそうになった。
「イシドール様とキスができて……嬉しいです」
「俺もだ……」
イシドール様の吐息を感じて。自然と、また距離が近づく。
二度目のキスは、最初から深くて。
「イシ、ド……」
「レディア……ッ」
イシドール様の手が、私の背中をなぞる。
頭の中が弾けそうになる。
身体中が熱くて、とろけちゃうかもしれない。
二度目のキスが終わると、その息は乱れていて。
そんなイシドール様も……かっこいい。
「その顔……俺を煽っているのか?」
「そんなことは……ただ、イシドール様のキスが、気持ちよくって……キスって、こんなに気持ちがいいものなんですね……」
「今からもっと、よくなっていく」
これ以上、よくなっちゃうとか……
私、おかしくなってしまうんじゃ?
期待と不安が入り混じって……
イシドール様の指先が、私の唇を掠めた。
「レディア、愛している。今夜は、もう……」
「……はい」
その言葉に、私の鼓動は限界まで高鳴った。
目を閉じた。身を任せる覚悟も、もうできてる。
イシドール様の手が、そっと私の髪を撫でていく。
その指先ひとつひとつが、私を優しく包み込むようで──胸が、ぎゅうっと苦しくなった。
でも、それは痛みじゃない。
こんなにも誰かを好きになることが、嬉しくて、幸せで。
涙がこぼれそうになる。
イシドール様の手が私の頬をすくい、唇が、また重なった。
今度は、熱く、深く、私の奥へと気持ちを注ぎ込むようなキスで。
「レディア……」
名前を呼ばれるだけで、身体が甘く反応する。
知らなかった。私はこんなにも、彼に触れて欲しいと思っていただなんて。
イシドール様の手が、私の背に回る。
私はただ、彼の胸に手を添えて──そのぬくもりを、確かめていた。
そして、そのまま──ふたりで、そっとベッドに倒れ込む。
これから、夫婦としての一夜が始まる。
そう、思った……そのとき。
「おかあさまぁーーーっ!!」
けたたましい足音が、廊下の奥から近づいてくる。
ちょ、今!?
がちゃりと扉が開いて、小さな影が飛び込んできた。
「シャロット!?」
パジャマ姿に、ぬいぐるみをしっかり抱きしめてる。
うるんだ瞳……一体何があったの?
「やぁなの……! こわいゆめ、みたの……おかあさまと、いっしょがいいの!」
私は飛び起きて、ベッドの端で固まったままの愛娘を抱きしめる。
「大丈夫よ、シャル。来てくれていいのよ、ほら」
手を広げると、ぴったりと私に抱きついてくる小さな体。
私はそのぬくもりを受け止めながら、そっとイシドール様に視線を送る。
彼はというと、ゆっくりと体を起こして──やれやれ、というように小さく息を吐いていた。
「……まったく、完璧なタイミングだな」
声に怒りはなかった。むしろ、微笑ましげな、それでいて少し悔しそうな響き。
ふふ、なんだか笑ってしまう。
本当に、完璧なタイミング。
でもやっぱり、申し訳なくて。
「ごめんなさい……」
「謝る必要はない。妻と娘の仲がいいのは、嬉しいんだ」
そう言って、イシドール様は、私たちの額にひとつずつ、そっとキスを落とした。
「今夜は……ここまでだな」
「……はい」
ベッドに入ったシャロットが、すぐに安心したように眠り始める。
私はその寝顔を見つめながら、くすっと息をついた。
イシドール様の手が、私の手をそっと包んでくれる。
「……まあ、長い人生だ。初夜の一つや二つ、延期されるくらいはな」
そんなイシドール様の言葉に、私もふっと笑ってしまった。
幾度目の初夜を迎えても、きっとこんな風に優しく愛してくれる。
その確信が、胸の奥にそっと灯ったとき。
私はふと、イシドール様の書斎の引き出しにしまわれている、あの栞のことを思い出した。
「イシドール様……スミレの花言葉知ってますか?」
「ああ、調べたことがある。確か、“謙虚”、“誠実”、それと──“小さな幸せ”、か」
そう。スミレの花言葉は、“小さな幸せ”。
それはきっと、手をつないで笑い合える夜のこと。
愛する娘が「おかあさま」と呼んでくれる日々のこと。
そして、夫がそっと額に口づけてくれる、こんな時間のこと。
「イシドール様。これからも小さな幸せを、いっぱい咲かせていきましょうね」
「ああ……咲かせよう。君と一緒に、毎日を、小さな花でいっぱいに」
イシドール様のその言葉だけでもう、私の心の中に、スミレの花がひとつ──そっと、咲くのを感じた。
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